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コラム2009

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【2009年コラム】
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『2008年』 1月のコラム

新しい年の幕開け。2008年(平成20年)。平成の元号も早20年。毎年この時期に誰でも思う。良き年でありますように、世界が平和でありますようにと。

お正月に祈念したことが、勤務が始まり、学校が始まり、日常生活に戻った途端コロッと忘却の彼方にいってしまうのが、一般人の常である。多少心がけて努力していても、その内「自分には無理だ」「ここまでできればいいや」と自分に妥協して、可能性を自ら放棄してしまう。王陽明が「山中の賊を破るは易し、心中の賊を破るは難し」といっているが、今年は一年間元日の思いを持ち続けたい。

ドイツの哲学者カントは生まれつきのくる病だった。背中に瘤があり、脈拍は絶えず120〜130.喘息でいつも苦しげに喘いでいた。ある時、町に巡回医師がやってきた。父はカントを連れて診せに行った。診てもらってもどうにもならないことは、カント自身も分かっていた。医師は言った。「気の毒だな。君は。しかし気の毒だと思うのは、体を見ただけのことだよ。考えてごらん。体はなるほど気の毒だ。だが君は、心はどうでもないだろう。心までもが息が苦しいなら別だが心はどうでもないだろう。苦しい辛いと言ったところで、この苦しい辛いが治るものじゃない。君が苦しい辛いと言えば、お父さんお母さんも苦しい、辛い。言えば言うほど、皆が余計に苦しくなる。苦しい辛いと言うその口で、心の丈夫なことを喜びと感謝に考えれば良い。体はともかく、丈夫な心のお陰で君は死なずに生きているじゃないか。死なずに生きているのは丈夫な心のお陰なんだから、それを喜びと感謝に変えていったらどうかね。そうしてごらん。私の言ったことが分かったろ。それが分からなかったら、君は不幸だ。これが君を診断した私の君に与える言葉だ」

カントは医師に言われた言葉を反芻した。「心は患っていない、それを喜びと感謝に変えろ、とあの医師は言ったが、俺はいままで喜んだことも感謝したことも一遍もない。それを言えというんだから、言ってみよう。そして、心と体とどっちが本当の自分かを考えてみよう。それが分かっただけでも、世の中のために少しはいいことになりはしないか」偉大な哲学者カントの原点はここにあった

健康とは健体(すこやかな体)と康心(やすらかな心)のこと。体を健やかに保つこと。それは天地から体を与えられた人間の務めである。そしてそれ以上に大事なのが、心を康らかに保つことだ。体が丈夫でも心が康らかでなかったら、健康とはいえない。たとえ体が病弱でも心が康らかなら、生命は健やかである。これは個々の人間から小さな組織、国家まで、あらゆることに通じるであろう。

人は生きてきたように死んでいく。皆、よき生を生きたいと願う。年頭にあたり、我人生の洗い直しをして充実の一年にしたいものである。
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『決断』 2月のコラム

組織で何らかを方策を決定する際に、役員会の多数決で決めるのであればリーダーはいらない。リーダーは時として少数意見を取り入れ、決断をする場合がある。自分の判断が組織の運命を決め、社員の禍福に直結するとなると、神仏に祈り、我一命を捧げてもいいから、この道正しかれの境地になる。そして決死の形相になる。指揮官は決断のためにのみ存在する。

1904年〜1905年の日露戦争。3月10日の奉天戦は、日本陸軍の大勝利で、その時の総指揮官は大山厳元師であった。彼は実際の作戦指揮はほとんど児玉源太郎総参謀長に任せていた。とき時の軍には、勝利の勢いに乗じてロシア軍を追撃し、殲滅しようとの気運がみなぎり、国民も戦勝に酔って盛んに戦いを煽っていた。尊い幾多の犠牲者のことや、戦費のことなどは、軍やマスコミの煽りによって表面には全く出ず、世論が戦争継続を支持した。

圧倒的な戦争遂行の世論にも拘らず、大山総司令官は児玉総参謀長に東京大本営へ戻るように命じる。明治政府もこの開戦に当たって「この戦争はせざるを得ないが、現在の国力では長くは戦えない」との冷静な判断をしていた。当時その斡旋役はアメリカのルーズベルト大統領以外におらず、金子堅太郎をワシントンに派遣。結果、ルーズベルトの仲立ちでポーツマス講和条約に結びつく。後日、専門家の分析によれば、我陸軍は奉天戦が体力的にギリギリの限度であったとの説が強い。

ポーツマス講和会議の日本全権大使は小村寿太郎であった。3月10日の奉天戦の大勝利に酔い、5月27日の日本海海戦での圧倒的な勝利に日本国中の世論は沸きに沸き、マスコミの扇動もピークに達していた。日本の現状を深く理解し国家の運命を坦った小村は、賠償金すら一切求めず講和の早期成立をひたすら望んだ。大任を果たした小村を迎える世論は喧々囂々として、横浜港に上陸することすら許さない空気が覆い、世論を扇動するマスコミによって、日比谷公園や京橋の交番焼き討ち事件が発生するに至った。

昭和になり終戦直後の日本を背負った吉田茂首相は、国益を優先したからこそ昭和27年4月28日の実質の独立に辿り着き、岸内閣は60年安保の時に世論の反対を押し切り成立にこぎつけた。

国家の命運を坦うリーダーの冷静な判断があって国益が護られ、国家が保全されてきた事実がある。世にいうリーダーたち、とりわけ宰相たる者は世論を越える決断があることを覚悟して任に当たるべきである。
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『因果』 3月のコラム

人間はいくら理想をもって実践に励もうと思っても、きっかけがなければ観念の遊戯、煩悩になってしまう。その手がかりというものが即ち「縁」である。いかなる因も、因からそのまま果にはならない。因果というが因から一足飛びに果には成らない。因は何かそこに手がかりがあって、そこから果が生まれる。これを縁という。即ち縁から起こる、縁起である。因果は言い換えれば縁起である。

そこでどういう縁を持つかということが大事である。因果は「何の因果でこんな目に遭うのか」などと、悪い意味に使われるが、実は善い事も因果である。人間は善いことはあまり感じない。悪いことはよく覚えていて、深刻に考える。だから人から恵まれたこと、厚遇されたことは忘れやすいもので、いじめられたことなどはよく覚えている。善というものに対して案外感心が薄く、悪というものに対しては非常に感じが強い。毎朝新聞を読んでも、よいことが書いてあるとそれほど感じないが、悪いことが書いてあると非常に印象深く読む。フランスの詩人が「人々は、毎朝起きて新聞を見て何か非常に悪いことでもないと、今日はなにもないという」と名言を残している。そういう妙な人間の心理的な部分が因果を悪い意味で使うようになったようだ。反対に面白いことに「果報」と言うことになると、これは悪いものも入っていたが、善い事に使っている。

因果も果報も縁から起こる。人間の大事なことは縁から起こる。人を愛する、人に尽くす、人を助けるということは、道徳上もっとも本質的な問題である。しかし人類の幸福のため、世界の平和のためにやるのだ、などというのは、景気がいい。聞いていて盛んだけれど、これは事実において空虚である。世界だとか人類だとかというものは、人間の概念、気分であって、事実上の縁起にならない。本当に人類のため、世界のためというなら、直接人間の接触から始めなければならない。それは何かといえば一番は身近な家族であり、親族であり、朋友、隣人である。又職場である。そこから実践していかなければ具体的事実ではない。

つべこべ泣き言、小言を言わない。そういうことは綺麗さっぱりと捨てて、人間の大事な根本問題、本質の問題に立ち返る。そうして自分の縁から始め、手がかりをつかんで、そこを起点としてやっていく。飛び越えたいことはやらない。気分や概念に浮かされることなく、自己の確立を目指したいものである。
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『夜と霧』 4月のコラム

第二次世界大戦時、ナチスによってアウシュビッツに収容されていた心理学者のフランクル。収容所にいる間に、そこでの出来事を小さなメモにびっしりと書きつけ、靴の底やいろんなところに隠し持ち帰り、「夜と霧」というレポートを書いた。

一節によるとアウシュビッツでは六百万人ものユダヤ人が「処理」されたという。そういう極限状態の中で、自殺をしたり、反抗して射殺されたり、栄養失調で死んだりせずに最後まで生き延びた人間。地獄よりももっとひどいと思われる極限状態のなかで生き延びたのはどういう人なのか、という考察がある。

フランクルやその他の体験者たちの記録によると、体が丈夫だとか、強い意思を持った人とかには限らなかったという。一般には、強い信仰心を持った人、意思が強い人、最後まで希望を捨てなかった人、思想的に深い信念を持った人が生き残ると考えがちだが、必ずしもそうでないと彼のレポートは語っている。

強制労働で外に連れ出され、死んだ人たちを埋めるためにスコップで穴を掘っている。日が暮れてきて、栄養失調の体は芯から冷え切ってしまう。そんな時、林の向こうに真っ赤な夕日が沈んでいこうとしている情景を見て、「見ろよ、なんてすばらしい夕日だろう」「本当にきれいだなぁ」というようなことを言える人。そんな人が極限状態の中で、比較的生き延びたそうである。「夕日?何を言っているんだ。俺たちは明日ガス室に送られるかもしれないんだぞ」と言って、自然の美しさとか、夕日が沈んでいくさまに心を動かすことのなかった人達が先に死んでいったという。

水溜りに映った木の枝とか、風景がレンブラントの絵のようだ、と感動してその水溜りを覘きこむようなタイプの人達。夜中に、狭いところに押し込まれて、枯れ木のようにみんなが重なり合って寝ている。栄養失調で、一日一杯のスープだけしか与えられないため、エネルギーを無駄に使わないようにと寝返りさえしない。そんな中でふと聞こえてくる音楽に、あの曲は何だろうと起き上がり聞きほれる。そんなタイプの人達が生き延びる可能性が高かったという。

自然に感動する、夕日の美しさに見とれる、懐かしいメロディを口ずさむ、日常何気なく行っている生活のひとコマが、実は我々人間を強く支えてくれている。
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『生・老・病・死』 5月のコラム

桜散り、市長選挙も終り、新緑眩しい五月。定額給付金の給付も始ったが、現金でもらいに来る人が随分多いそうである。もらったその足で即何かに給付金を当てるようだ。

北朝鮮のミサイル発射もスマップの草?君の騒ぎも最早過去。

福島県の人口が204万人。少子化がいわれて久しいが、確実にヒタヒタと人工口問題が身近に押し寄せている。「オイラはあとのことはし〜らない」などと無責任なことはいっていられない状況である。今生きている人達には次の世代に引き継ぐ責務がある。

人は生まれて老いて病んで死んでいく。老・病・死が苦しみなのは分かるが、生まれることはどうして苦しみなの?生きるも生まれるも同じ「生」。生きることが苦しみなのか。

上がり続ける株があったら面白くない。株は下がるから面白い。パチンコは出続けたら面白くない。面白いかもしれないがそれは最初だけ。スポーツ観戦は実況だからドキドキする。結果が分かっている録画ではあの高揚感は味わえない。ノンリスクは全く面白くないのである。人間は苦しみがある面白い。死というものがあるから一生懸命生きようとする。万一何をしても死なないと分かっていたら、生きていることはとりたてて嬉しいことではなかろう。

以前ラジオで子供の質問に答える番組での話。どうして人は死ぬんですか?という質問に、もし死ななかったら地球は人間だらけになってしまうから死ぬんだよ、と迷解答をしていた。質問した子は納得したようなしないような生返事であったような気がする。

生老病死は仏教の輪廻の考え方が背景にある。前世で卒業できなかった「業」を背負って新たな命として誕生する。だから「一生修行」なんていうのだろう。死後地獄よりは天国がいいに決まっている。みんな生きる苦しみに耐え、病と老をもらい、天国を目指す。その中で生きることが苦しいと思わず、楽しい、嬉しい、と思えば、病も楽しい、老は嬉しいと感じられれば、死は素直に受け入れられるのではなかろうか。「業」とはいえ、争い、比較し、自分の欲をごり押しする人生の色が濃い人は陰も濃い。薄すぎても困るが、過ぎたるは及ばざるが如し、でどっちかといえば薄い人の方が平安の人生が送れるようだ。欲八分目、欲を薄めると人が集まるのでは……

青春は青龍 朱夏は朱雀 白秋は白虎 玄冬は玄亀 地球が回っているように自然界もある一定の法則?基準?があり回っている。人間の生き死も同じように繰り返すのでは?ただ前世の記憶がないのでこの世で同じような過ちを犯したりするのだけれど。

まぁ幾つまでこの世に置いてもらえるか分からないが、我人生謳歌したい。それには人間一人じゃ生きられないので、相手を喜ばして嬉しがらせることが一番かなぁ。相手の幸せで我も幸せになる。
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『木鶏(もっけい)』 6月のコラム

大相撲夏場所は大いに盛り上がり大関日馬富士の初優勝で幕を閉じた。14日目琴欧州に破れ、3場所にわたり積み重ねてきた連勝が33で止まった横綱白鳳は苦笑しながら「いまだ木鶏たりえず」とつぶやいたとか。この木鶏とは「荘子・外編」 「列士・黄帝編」に出てくる。

紀省子(きせいし)、王の為に闘鶏を養う。10日にして問う。鶏己(よ)きか。曰く、未(いま)だし。方(まさ)に虚?(きょきょう)にして而(しか)して気を恃(たの)むと。10日にして又問う。曰く、未だし。猶響景(なおきょうけい)に応ずと。10日にして問う。曰く、未だし。猶嫉視(なおしっし)して而して気を盛んにす。10日にして問う。曰く、幾(ちか)し。鶏、鳴くものあり雖(いえど)も、応ずることなし。之を望むに木鶏に似たり。其の徳全し。異鶏敢えて応ずるもの無く、反って走らんと。

紀省子という人が闘鶏の調教師が王(周の宣王又は斉の斉王の説あり)に恃まれこれを飼った。10日程経って王が「もうよいか」と訪ねた。紀省子「いやまだです。空威張りして客気満々でこんなことでは駄目です」更に10日経って王が催促。「いやまだです。相手の姿を見たり、声を聞いたりすると興奮するところがあります」又10日経って「まだか?」と王。「まだです。相手を見ると、何だこの野郎、何ほどのことがあるか、と睨みつけて気勢をあげるところがあります」と紀省子。それから又10日。「まぁどうにかものになってきました。他鶏が挑戦してきても、平生と少しも変わりません。ちょっと見ると木鶏そっくりです。得が充実しました。もうどんな鶏が来ても応戦できず、見ただけで逃げてしまうでしょう」

これを安岡正篤氏が双葉山に一杯機嫌で話をした。そしてそれを書いて欲しいと懇願されて「木鶏」と安岡さんは揮毫してあげた。双葉山はそれを額に入れ、暇があるとその下で座禅をしていたという。双葉山の連勝が69で止まったとき安岡氏はインド洋の船の上。「イマダモッケイニオヨバズ」との電報がきて、「あぁ双葉山は負けたな」と分かったという有名な逸話がある。

白鳳が双葉山を尊敬し、木鶏を目指していたとはいささか驚きだが、心技体の最高峰の横綱ともなれば当然のことか。何かを目指し達成していく人間にはそれなりの雰囲気、オーラがある。木鶏を目指したいものである。
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『結婚式』 7月のコラム

去る6月20日(土)弊社の橋本真明君と遠藤由子(ゆうこ)ちゃんあの結婚式が執り行われた。祝辞の挨拶の原稿を記載する。(抜粋)

橋本家遠藤家御領家の皆様。本日は誠におめでとうございます。真明君由子ちゃんおめでとう。当社弊社は西ノ内で主に宅地や住宅、アパートの斡旋を行っている不動産業者です。真明君は2002年5月20日に弊社に入社しました。私がとてもお世話になっている島津さんの甥ということで、当時は人を増やすことは考えていなかったのですが、まぁこれも縁かと思い採用しました。二十歳だった彼はまだ生意気さが残っており、私も随分勉強させられました。

さて私はスタッフに目に見えるものではなく、目に見えないものを大事にしようと日頃言っております。目に見えないものとは、挨拶とか掃除とか靴を揃えるとかごみを拾うとか呼ばれたらハイと返事をするとか、そういうことを大事にしようということです。そしてそれを判断するのはお客様です。少なくとも真明君はそれができています。真明君はお客様の評判がとても良いのです。一生に一度といわれているマイホームを購入されるお客様は初めは恐る恐る連絡をくれる方が多いのですが、真明君が接客すると、いつの間にかすっかり打ち解けて、この人なら信用がおける、この人にお願いしようという気になる素晴らしい人間性をもっています。由子ちゃんのおじいちゃんにいわせると真明君はカンプラヤロウなそうですが、カンプラの孫息子ができておじいちゃんも喜んでいることでしょう。

人は9つ足りていてひとつの不満があると、まっ先にその不満を口にするものです。ひとつの不満ではなく9つ足りている方をみて、これから長い人生をふたりでつくりあげてほしいものです。人は自分を幸せにできない、相手からいただくという思いを持ち続けて、明るい家庭を築いて下さい。

由子ちゃん 男はたこ、女はその糸を操ってと思っていてください。たこである男はふらふらと風任せのところがありますが、男はそういう習性があるものだ、まぁ仕方がないか位に大目にみてやって下さい。

親が子を大切にするのは動物でもしますが、子が親を大切にするのは人間だけであります。どうか自分の親ももちろんですが、お互いの親を大切にして下さい。親があっての自分達なのですから……

最後に橋本家遠藤家の益々の発展と真明君由子ちゃんの末永い幸せを祈念して挨拶とさせていただきます。本日はおめでとうございます。
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『ぼろぼろな駝鳥(だちょう) 高村幸太郎』 8月のコラム

何が面白くて駝鳥を飼ふのだ 動物園の四坪半のぬかるみの中では 脚が大股過ぎるぢやないか 頸(くび)があんまり長過ぎるぢやないか 雪の降る国にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢやないか 腹がへるから硬パンも食ふだらうが 駝鳥の眼は遠くばかり見てるぢやないか 身も世もない様に燃えてゐるぢやないぢやないか 人間よ もう 止せ、こんな事は

自然の摂理に反することを諌める強烈な詩である。もしかして駝鳥とは人間自身かも知れない。

さて、話は変わって、衆議院が解散。8月30日に政権交代を懸けて大事な選挙が行われる。与党の自民・公明両党が苦戦を強いられ、流れは民主党のようだ。国民はどっちの政党と言うようりも、自民党の政治にあきれ、飽きがきているのではなかろうか。決して民主党が良いということではなく、比べたらどっちかというと民主かなという程度の認識でいる。お金の問題も含め政治は三流といわれる日本。相変わらずというか毎度ながらというか国民不在の感は否めない。

人間は大きな時間の流れに沿って今日があり、子孫に繋げていく大きな流れの中で生きている。「自分さえよければ」と考えることは真理に反する。人間は人と人との繋がりの中で生きているのに、自分のことしか考えられないような人は行き詰る。人間は苦しくなってくると、どうしても皆目先のことしか考えられない。とても人のことを考える余裕がなくなる。苦しい→自分のことだけ→行き詰まり。行き詰らないようにするには、先々のことを考え、皆のことを考えなくてはいけない。

日本の政治家は、皆目先のことしか言わない。そして自分の選挙のことだけ考えている。今回はその行き詰まりの境地の選挙になる。国家百年の計を掲げ、百年をかけこんな日本をつくるのだという政治家がひとりもいないことは寂しい限りである。目先の景気よりも、国民に勇気と意欲と誇りを与えてくれる人ならば「そんな日本ができるのなら目先のことは我慢してもいい」というように国民も支援するだろう。大きな計画を示す政治家が待望される。今回民主党が政権を取ったとしても次は自民党が返り咲くだろう。国民に百年の計を示せない政党はどっちも同じなのだから。
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『負けるが勝ち』 9月のコラム

今も昔も「有言実行」などといって「まず大きなことを言って現実を目指す」という人が結構多い。今回の総選挙で政権を担った民主党には、是非有言の実行をお願いしたいものだ。「政治は生きもの、時勢は変わるもの、今現在の最良の判断で政策変更は止むを得ない」などという逃げ口上はもう聞き飽きたと思うのだが……許してしまうところが日本人のいいところか。

ちょっと話がズレたが、サッカーや野球の試合に勝つとか、オリンピックで金メダルをとるなどという、その目的のためにあまり邪魔が入らず、大衆に支持され国民全体の希望することには、皆協力しやすいし、有言実行は大いに結構。しかしながら、一個人の営業の成績を上げる、自社の商品を売る、事業を拡大するという場合には、その実現を妨げる要因が沢山出てくる。

例えば個人の営業の成績をあげることは、会社全体にも良いことだし、社員が得することだから、一見邪魔する人などいないように思うが、そうではないのが現実。「あいつばかりに名声を高めさせられるか」という嫉妬人間が必ずいる。人は競争になると目先の勝敗しか考えない。長い目で見れば彼の業績は会社にとっていいことだと分かっていても、彼に負けたくないという個人的感情、やっかみが優先するのが人の心。だからできる人間は「うまいものはそっと食う」のだ。もちろんケースバイケースを踏まえてのことだが……

勝つ者は恨みを受く 負くるるものは夜も眠れず

勝つと負くるを離るる者は 寝ても覚めても安らかなり  法句経(ほっくきょう)

かのお釈迦様も 勝つものは恨みを受ける と人の奥底に潜む妬み心を知っていた。紀元前から人の心は変っていないということだろう。

世に処するには一歩を譲るを高しとなす

歩を退くはすなわち歩を進める本なり

人を待つに一分を寛にするには、これ福なり

人を利するには実に己を利する根基(こんき)なり     菜根譚(さいこんたん)

人間関係の処世術は相手に一歩譲ることだ

一歩を退くことは、実は一歩を進めることになる。

人に接するときは、寛大な心を持つことが福をもたらす

人に利益をもたらすようにすることは、実は自分の利益の根本となる

つまりは負けるが勝ちということ。相手立てれば蔵が建つというではないか。あまり自慢をしないで、相手を立てる気持ちがあって皆に支持されてこそが安泰があり、幸福感がある。
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『省』 10月のコラム

徳と知能が相まって人格というものが表れる。欲望は陽性、内省・反省は陰。欲望がなければ活動がなく、欲望は盛んであって然るべきだが、盛んであればあるほど内省というものが強く要求される。内省のない欲望は邪欲である。

省という字は「かえりみる」 「はぶく」という意味である。人間が団体生活をするようになって国家ができた。人民は多くの欲望を持っているので、放任しておくと収拾がつかなくる。そこで省みて、省く必要が出てくる。これに当たるのが国であれば政治家であり、会社ならば社長である。そこで国を代表する政府諸官庁に省の字をつけた。外務省、国土交通省、文部科学省等。だから政治家がよく省みて省いていけば、国民生活が健全となる。これに反して余計な官庁を沢山つくって、多くの役人を抱え、雑務により事務を煩雑にすると「省」の反対「冗(じょう)」になる。役所は常に省みて省かなければならない。中国、宋の時代の名宰相に季?(きこう)という人のことばに「政治の秘訣は、浮簿新進、事を好むの徒を用いないことだ」とある。政治家には肝に銘じておいてもらいたい。

枝葉を繁らせておくと日がささなくなり、風も通らなくなり、虫がつき枝葉が蒸れて成長が止まる。花の栽培も同じで、美しいからといってむやみに花を咲かせると、次の年は駄目になる。花よりも大事なのには実。だが実を多く成らせると木が弱る。惜しくても思い切って実をまびかなければならない。これを果断・果決という。よい実を得ようと思えば賢明・勇敢に、果断・果決をやらなければならない。これは省の理法に一致する。だが実生活に当てはめようとするとなかなか難しい。うかうかしていると花も実も台無しにしてしまう。ましてや政治となると……だから人間として欲望も才能も気力も気魂もあって、さらによく反省して自己を自粛し、てきぱきと事を処理していけるというのが本当の健康な人といえる。

今回の政権交代。鳩山首相の出だしはまずまずといった評価のようだ。自民党政権でダブついたところをいかに省みて省けるか、お手並み拝見といったところか。無用な枝葉を取り除き適度な花を咲かせ、果断・果決を決行して真の実を成らすことを期待したい。総理大臣という最高権力を得たことによる邪欲に惑わされることなく、くれぐれも冗にならないようお願いしたい。
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『草食系日本人』 11月のコラム

安倍首相の時、教員免許の更新制度を設けた。新政権はこの教員免許更新試験制度を廃止し、元に戻すといっている。民主党の参議院議員会長で小沢一郎幹事長の側近でもある輿石東氏は「今も日教組の組合員だ」と明言している。夜更かししてなかなか起きられず、朝食抜きで登校する子どもが多いことは以前から指摘されていた。寝不足で倒れる子もいるという。そこで前政権の時「早寝、早起き、朝御飯」という方針が打ち出された。するとこれに日教組が異を唱えた。その理由がバカらしい。個人の生活に公が口出しするのは憲法違反である、という。自分という個を何よりも優先し、公を大事にする心が日本人からなくなってきている。

かっての日本人の多くが持っていた「公」の心。その公の心が失われつつある。マニフェストが定着して各党の方針が示された今回の選挙。農家の所得を補償します、子ども手当てを出します、高速道や高校の授業料を無料にします等々、、、差し上げますのオンパレード。日本人にとって公は、誰かのために何かをするのではなく、何かをしてもらうものになってしまった。自分がするのではなくもっともっとと、してもらうことを求める姿勢には、常に不足感がつきまとい、いつまでたっても不満は解消されない。海の水は飲めば飲むほどもっと飲みたくなる、と同じことだ。与えられることが当たり前、与えられなければ不満。突き詰めれば自分さえよければ人はどうでもよい、ということだ。この種の人達は公営住宅に住んでいて高級車を乗り回している人とリンクする。弱者救済ともらうのが当たり前ということを混同してはならない。

最近は草食系男子ということばが流行りだが、国民全部が草食系になってしまい、このままでは自力で生き抜く力がなくなってしまうのではないか。生命力と逞しさが失われつつある日本人。競争社会で疲れ、人間関係のストレスに悩まされ、精神面で一本立ちできず、いつでも誰かに援助してもらうことを期待している。自らの判断で自らの責任をもって人生を全うしようとする人が少なくなってしまった。

今の日本人は水を与えてくれることに期待ばかりして、井戸を掘る技術を教えてくれる人を探そうとしない。日本人の良さは世の為、人の為、つまり公のために役に立っていると実感し、その上で責任をもって自分の役割を果たし、半歩下がる謙虚さを備え、急がば回れということを知っていることではなかったのか。そしてそういう人を皆が尊敬する風土ではなかったのか。日本人よ!自力で生き抜く術、独り立ちできる術を身につけよう。そして貰うこと、集めることよりも、与えることの素晴らしさを思い出そうではないか。人は得るもので生計を立て、与えることで人生をつくる。
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『至 楽』 12月のコラム

人の至楽は 身に病無く 心に憂無きに如(し)くはなし 鮮東坡(そうとうば)

今年も色々あったが、無事 12 月を迎えることができた。年々身近の人達はもちろんの事、見知らぬ多くの人達にも有難いと思う気持ちが増していくように感じる。生かされているんだなぁと感じる。

過ぎてしまえば何ということもないが、今年も激動の一年だったということになるだろう。世間では益々生活しにくくなっているという。デフレスパイラルとかで物価が安い。消費者側からすると歓迎だが、売る側、提供する側、製造する方は大変である。売価が下がれば巡り巡って給料が下がり、収入が減少する。悪循環である。給料は高く、買い物は安く、とは凡人が望むところだが、そうは問屋が降ろさない。世の中うまくできていて、何事もほどほどということを心がけるほうが良い。

就職氷河期である。高校や大学を卒業しても仕事に就けない。求人がこの不景気で大幅に減っている。学生に限らず職を失い、職探ししている人はかなりの数になる。ワークシュアリングで仕事をより多くの人に分担しようとしても、仕事そのものがないのでは話にならない。働きたいのに働く場所がないのは何とも切ない。働くとは傍(はた)が楽(らく)になるに通ずることはよく言われていることで、お金ではなく人間本来の本能で、人の為に何かをやりたいと思うのは万人の共通認識なのだ。ただ、その気なればいくらでも働けると思うのだがそれは机上のことか。

このような経済状況はしばらく続く雰囲気だ。仕事が増える、給料が増えるとかいう熱が全くといっていいほどない。忘年会シーズンになったが、そういった会合での集まりも、集まる人数が少なくなった。酒を飲んで楽しく語り合うという気持ちになれないのだろう。飲み会よりも経営戦略セミナーなどが流行りで人も集まる。セミナーを開いて、ノウハウをそれなりの金額で購入。なけなしのお金をノウハウの代金に充て、業務回復を期待するが、そうならないケースが圧倒的に多い。つまり人を当てにしてはいけないということだ。人の話を聞くことは良いことだが、それを自分の中で煮込んで自分の味にしないとお客様には選んでもらえない。ただ小手先のノウハウでは世間は振り向いてくれないのだ。

多少の持病は仕方がないが身に病無く、今日生かしていただいたこの命に感謝して、憂いを少なくしようと心がけていれば、この世は至福。幸せだから感謝するのではなく、感謝するから幸せなのだ。

なにはともあれ今年も大晦日を迎えられることに心から感謝したい。新たな年が皆様にとって良き年になるよう祈願して止まない。
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