代表 菅原

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『 道 VOL157 』 五月のコラム 上へ

 道   相田みつを


長い道にはなあ
どんなに避けようとしても どうしても通らなければ
ならぬ道
というものがあるんだな

そんなときはその道を
だまって歩くことだな
愚痴や弱音は吐かないでな
黙って歩くんだよ
ただ黙って
涙なんか見せちゃダメだぜ

そしてなあ その時なんだよ
人間としてのいのちの
根がふかくなるのは

 人生という長い道には避けることができない理不尽なことが多々ある。泣き叫ぼうが、誰かにすがりつこうが、その状況から脱することができない、逃げることができない、自分の力ではどうにもできない運命というものがある。

 人生は山あり谷ありというけれど、調子のいい時は何も見えず感じなかったものが、どん底になった時、見えたり感じたりする。人の気持ちの醜さやありがたさは底になった時に分かる。人は見かけによらないといわれるが、底を経験しているかどうか、そして多くの人の助けがあり這い上がれた時の気持ちを忘れないかどうか。どん底の時、愚痴や弱音を吐かず、じっと耐え、涙を見せず黙々とあるけるかどうか。

 黙々と耐えて歩いている時に人間の根が深くなる。根が深くなれば枯れることはない。枯れることがなければ、幹を太くし、枝を繁らせ、花を咲かせ、実をつけることができる。

『 家康の器 VOL156 』 四月のコラム 上へ

 豊臣英次は伯父・秀吉に切腹を命じられた。秀吉は淀君との間に秀頼が生まれ溺愛していたから、自分の後継者にするつもりで関白の地位を与えていた秀次が邪魔になって死を命じたと言われている。文禄四年(1595)のことである。

 この時、同時に細川忠興も窮地に陥った。秀次は諸大名を味方にしておくため、又、利息を稼ぐため、金銀を貸し付けており、忠興もまた黄金二百枚(1300万円)を借りていたからである。まさかこんなことになるとは思ってもいなかった忠興。

 秀次の家来が「あの黄金をすぐお返しいただければ、証文は破り捨てます。もしお返しいただけない時は、太閤の奉公所に借用書を提出しなければなりません。」と申し入れてきた。

 忠興は「それは急に用立てできない。が、これを太閤に知られたら、何らかの嫌疑がかけられ、罪に問われるに違いない。どうしたものか」と苦慮し、重臣を集めて会議を開いた。会議の席上、松井康之が「私は徳川殿の側近本多正信殿と親しく交際を続けてきました。本多殿を通して徳川殿に頼んでみましょう。徳川殿は頼もしい人なので、見捨てることはないと思います。」と言った。

 松井に発案に忠興は「自分は常日頃内府殿(家康)とそれほど親しくしている訳ではないから、頼む筋ではない。お前が本多正信と親しいのであれば、話をしてみてくれ」と答えた。そこで松井は早速本多にこれを話し、家康に話を伝えた。家康はその場で松井を呼び寄せ、人払いをし、本多に命じて唐櫃二つを開かせた。其々に黄金百枚が入っていた。「この黄金を入れた箱に書いてある年月日を見てみよ」家康。「これを見ると21年前、まだ三河におられたときですね」本多。家康は松井に「現在金銀は出納の責任者がいる。ひそかに使おうとしても、思うようにはいかぬ。だから、このように黄金を蓄えておいて、こういう時に自由に使えるよう長い年月しまっておいたのだ。今細川家の為に使うことができて、かねてからの念願を達することができる。嬉しいことだ。」と言って自ら松井に渡した。この言葉と黄金に松井がどれほど感激し、恩に着たかは想像に難しくない。松井は「細川家が続く限り、この温情は忘れません」と涙を流した。家康は「人知れず貯めていたお金を出したのです。返済は不要です。」と言った。

 その後折を見て、忠興は家康を訪ね、「かつてのお情けに報いるためには、もしもの折には家康殿の為に国も身も捨てて尽くします」と誓った。以後、忠興は肝心の時は家康の為に誠実に働いた。家康の生きた金の使い方は現在にも十分通用する見本といえるだろう。

『 フェイク VOL155 』 三月のコラム 上へ

 人はゼロで生まれて多くのものを抱えて亡くなる。というがこの世に受ける資格を得た時から多くのものを抱えてこの世に出現するのではなかろうか。それを一生かかって解き明かしていくのが人生ともいえる。生まれた意味を解き明かすために命を懸けるという意識がないと糸のきれた凧と同じになり、根無し草なり、ふらふらと一生を送ることになる。目先のことに振り回され、過ぎたことを悔やみ、先のことを憂い、最期は自分の人生は一体何だったんだろうと思いを残しかねない。

 迷った時、困った時は先人が後からくる者達に残した遺産をもいうべき人の生き方の人生訓を学べば、自らと答えのヒントがあるのに一部の人しかそれに気づいていない。何世紀にも渡り、受け継がれてきた先人の言葉は人が生きる道の真実を的確に言い当ててる。仏教、聖教、論語などはその代表格だ。

 アメリカ大統領のトランプ氏が自分の都合が悪いニュースはフェイクニュースだといって報道の統制を図っているようだが、何が本当で何が偽りなのか、何を基準にして判断すればいいのか。一方的に流されるメディアからの情報の裏をとることなんてなにのだから。

 毎日報道されている北朝鮮の金正男氏の暗殺。マレーシアの空港で起きたこの事件も真相は2週間経過した現在もはっきりしない。真実は一つなのだろうが、切り口が違うと全く違う報道になる。世界的に大きな事件は他人事で聞いていればよいが、身近な出来事はそうはいかない。自分の利害や生活に直結するような情報の信憑性が切実な問題になることもある。真実の情報でも、行き違いや勘違いによって逆に伝わることもある。人工知能ならこういうはないだろうが、人間のやることは当てにならないことも多く間違いも日常茶飯事である。もっともそれが悪い事ばかりではなく、結果的にいい方向にいくこともあるのだから、人生は面白いともいえる。

 ゼロで生まれてくるとみるか、多くのものを持って生まれてくるとみるか、よく考えたら結局おなじことではないか。積み上げるのが人生なのか、切り崩していくのが人生なのか、そんな事はどっちでもよくて、真実なのか偽りなのかもどっちでもよくて、自分が生きた証を後世の人の何人かが〇と判断してくれれば本望だろう。だから生存している「今」を大事にして、身近な先輩達の生き様を参考にして、周りの人に優しく親切に接していけば「まぁよし」ということ。その前に迷惑をかけないように自立が前提だが。

『 人は与えたものが VOL154 』 二月のコラム 上へ

 大方の予想を覆しアメリカ大統領にドナルド・トランプ氏が就任した。

  「人は与えたものが返ってくる。それが自分か子孫か分からないが。」この言葉を人に良いことをすれば子孫も繁栄する、良いこととは見える物だけでなく見えない言葉や笑顔のことをも含み、「情けは人のためならず」と同義語だとずっと思っていた。左脳ではそう思っていたが、右脳では何か変、違和感がある、とも感じていた。ある時テレビで、いじめや虐待が子供の世界だけではなく、大人の世界でも日常茶飯事に起きているニュースを見てハタと思い当たった。与えたものとは罵声とか脅しとか嫌な顔とか相手にとって嫌悪に思えることも含まれるのだと。

 人は傷つけられたり、傷つけたり、心に傷をもって生きている。傷の無い人はいないだろう。自分では全く意図しない言動が相手を不快にさせていることに気づかず、逆に自分ではとても不快なのに相手が気づいてくれず、心の傷に塩を塗ってくることもある。それでも中々面と向かって、不快だからそういうことは言わないでほしいとか行為を止めて欲しいと言い出せない。一対一ならまだしも一体複数ならなおさらのこと。厄介なことに人間の心理として複数になると抑制がきかなくなる習性がある。これは自分が複数側に立ってみるとよく分かる。面白可笑しく一人を傷つけ笑いものにする優越感の高揚は気持ちがいいものだ。

 その傷は通常成長するに従って、時間の経過とともに記憶の奥に仕舞われ忘れ去られる。後で思い出しても「ああ、あの時は嫌な思いをしたなぁ」と多くの人が修正できる能力を持っていて、ほとんどの人は逆恨みなどしない。逆恨みはしないが、その人の性格に反映され、社会人になって自分でも気がつかないうちに相手を傷つけてしまう。

 「あいつにあの時に嫌な思いをさせて悪かったなぁ」と思う人はほとんどいない。人間は嫌なことをされたことや反対にあいつにあの時奢ってやった等と自分の優位なときのことを覚えているものの、その逆はほとんど記憶にないというのが通常である。

 人はいいことも嫌なことも与え、与えられ、それが子孫に受け継がれる。極端に言えば「君のお父さん(お爺さん)にあの時助けてもらったから、君が大変な時は言ってくれ」となるか「君のお父さん(お爺さん)に嫌な思いをさせられたから君が苦しくても助けない」と言われるか。

 ということでできれば皆でお互い助け会える世の中にしたいものですね、トランプさん。

『 2017・年頭 VOL153 』 一月のコラム 上へ

 新たな年の始まり。宇宙に太陽系があって、太陽系に地球という惑星があって、地球は自転しながら太陽を公転している。公転を一年、自転を一日、一日を24時間、一時間を60分、一分を60秒と人間が決めてそのルールの中で喜怒哀楽の一生を送る。自然界はそんなことはお構いなく、自然界のルールに則って回っている。自然界には時間は存在しない。ただ、何かの大きな意志によって回っている。それを人間界では「神」と呼んだり、「天」といったりする。

 素朴な疑問として「人間」は誰がつくったのか。遺伝子解析が進む中、膨大で緻密な設計図があって人体ができるという。その設計図は誰が何のためにつくったのか。何かの偉大な力という他にないがこれをサムシンググレードと筑波大学の村上和雄名誉教授は呼ぶ。何かの拍子に眠っている遺伝子がオンになると能力が加速されたり、又オフにすると病気が快復したりするという遺伝子の研究をしている先生である。

 一般人には小難しい理屈は分からないが、いずれにせよ人間として生を受けてこの世に生まれてくることは奇跡といっていい。その奇跡の産物であるにも拘わらず天敵のいないことをいいことに人間同士でいがみ合い、我欲を満たすために無情な殺生を行っている。人間同士が争っている間に地球温暖化が進み、勝ち組も負け組も関係なく人類が滅亡してしまう危機に晒される。その時になって気づいても遅いのである。大いなる父母の自然には抗うことはできない。人間の小賢しさを自然はとうにオミトオシなのだ。いくら粋がっても人間が寄り添い従うしかない。

 今年も年頭に多くの人が「家内安全」「商売繁盛」等と祈祷する。祈りはそれで意味があるが、いくら祈っても大きいか小さいかは別にして必ずピンチはやってくる。ピンチがあるということはチャンスでもあるということ。谷があるから山があるのであって、山ばかりなら山とはいわない。生老病死を繰り返し人間界は回っていく。自分は何も悪いことをしている訳でもないのに、災害に遭ったりする。自然界は善人か悪人かは判断しない。良いも悪いも思いがけない出来事が次々と起こる。自然界は人間が予測できない深いところをマイペースで回っている。人間は自然を恐れ、畏れなくてはいけない。

 自然界には関係なく、人間が勝手に決めた新年という区切り。それでもこの区切りは大事。両手を合わせることはそこに小宇宙をつくること。その小宇宙を感じ、人としての生き方を全うする。そう祈願しえピンチもチャンスも呑み込んで、この一年悔いのない年にしたい。



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