代表 菅原

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『 天才とは VOL161 』 九月のコラム 上へ

 誰もが知っている発明王トーマス・エジソン(1847-1931)。グーグルの創業者の一人ラリー・ペイジがエジソンのライバルである二コラ・テスラについて次のようにいっている。「テラスからは、世界で最も偉大な発明をしても、単に発明をしただけで何にもならないことを学んだ。彼にもう少しビジネスの才があり、ひとづきあいがうまかったら、はるかに多くを手にすることができたのに。何かを発明するだけでは全く今がない。社会に影響を与えるには、それを世に送り出し、人々に使ってもらうことが何より重要だ」

 テラスは電気技術者としてエジソンの研究室に籍を置いたかともあったが、送電システムを巡り、エジソンと対立。「交流・直流闘争」を巻き起こす。この闘争で交流を推進しようとしたテラスが勝利し、彼はその後誘導電動機の発見など偉大な功績を残す。しかし、エジソンと違い、彼は成功者として歴史に名を刻まれることはなかった。エジソンの凄さは発明家であること以上に、発明をビジネスとして育て上げ世界を大きく変えたところにある。これは現在のグーグルやフェイスブックなどのIT産業にもいえることだが、アイデアを形にするだけではなく、それを世に広め、世界に変えてこそ初めて発明の意味をなす。と同時に、エジソンを発明王たらしめたものは何か。エジソンが生きた時代にも優秀な発明家は世界に数多くいたはずだ。優れた才能の持ち主は世界中に沢山いるが、名を残すのは他の発明家にはない独自のビジョンや情熱を持っている人だ。エジソンもまた、生涯にわたり幾多の逆境に遭遇しながらも、高いビジョンを抱き続け、何事も前向きに乗り越えてきた。有名な「失敗などしていない、うまくいかない方法を一万通り見つけただけだ」ということばは彼のポジティブな考え方そのものだ。

努力に勝る天才はない、と言われるがまさに努力できる人が天才ということなのかもしれない。エジソンに限らず世に名を残す偉人達は環境や境遇をものともせず、世に認められる功績を残す。一般人と何がどう違うのか。不屈の闘志?ある時、人生を変えるほどの感激・感動を受けた?何が何でも絶対こうするという気概?決してぶれない気持ちの強さ?こえらが努力を忍耐強く続けることができる原水だ。

 世の中からはじき出され、野垂れ死にするかも知れない孤独と戦いながら、それでも自分は必ずできると信じ切った先に光がある。社会保障の充実で生きていくには困ることがないような世の中だが、根無し草のようにふらりふらりとした生き方には充実感がない。エジソンは信じ切った人だ。天は信じ切って努力した人の上に才を与えてくれるのだろう。

『 ろうそく VOL160 』 八月のコラム 上へ

 人生は苦しいことの連続で苦難ばかりという人がいる。その一方で色々な苦しみが続いたとしても、その一つひとつが幸せに繋がるステップでその人の幸せの為に苦難は必要という人もいる。それぞれの苦しみには私たちの考えの及ばない天の計らいがあり、何らかの深い意味があるという観点から思いを綴ってみる。

 人生は苦難や困難がこれでもかこれでもかと次々やってくる。まさに一難去ってまた一難。やっと何らかの形で決着したと思ったら、落ち着く間もなく次の理不尽なことがやってくる。病気、事故、自然災害、おもわぬトラブル等、自分の力ではどうにも対処しようがない事態も度々発生する。

 好ましくない出来事が起きたとしても、それは自分の成長に繋がる原動力となる。原因は突き詰めれば自分にある。自分の我儘が苦難を呼びよせている、という風に思えるまで、それに気づくまでは苦難が続く。だから苦難は恐れ嫌うべきものではない。自分の生活の不自然さを教える為に現れる。

 人は誰でもしあわせになりたいし、愛する人にも幸せになってほしいと願う。それには自分自身が明るくご機嫌な「幸せ発信地」になることだ。「幸せ発信地」になるには小さな幸せに喜びを見出し喜ぶこと。笑顔でいると自然とその人の周囲は明るくなり、多くの人が集まるようになる。

 機嫌のいい人になるには「コンプレックスを消すこと」「人の悪口をいわないこと」。そして「自分はつまらない人間だ」「あんな馬鹿なことはしなければよかった」などと居心地の悪い感情が湧き出てきたら、心の中で大きな×でキャンセルと念じて消し去る事。このキャンセルのやり方は自分の気持ちの中なので、慣れればいろんな場面で使える。

 人生はろうそくに例えられる。この世に生を受け火が灯る。その火は周りを暖かく明るくする。その暖かさは熱いものではなく、その明るさは電球のような明るさではない。そしてろうそくが短くなり、寿命がきたら静かに消える。自分のろうそくが長いか短いか誰にも分らない。又、人生が嫌になって苦しくて自暴自棄になって自分で倒れ、火事を起こす人もいる。

 人生は倒れてはいけない。どんな事があっても倒れてはいけない。何があっても決して倒れてはいけない。倒れそうになったら、周りのろうそくを見よう。皆、明るく暖かいではないか。芯がしっかりしているではないか。ししてよくみると倒れそうになった数が多いろうそくほど芯が太く笑顔でご機嫌ではないか。艱難辛苦は芯をふとくしてくれるありがたい導きなのだ。

『 パラダイムシフト VOL159 』 七月のコラム 上へ

 1.靴の商社に勤務している二人のセールスマンに、新規マーケットを開拓せよとアフリカに赴任の人事が出された。赴任した土地はアフリカでも最も深いとされる奥地。そこで暮らす人はすべて裸足で、靴を履く習慣がなかった。赴任してしばらくして二人のセールスマンから本社に連絡が入った。

 A 「誰一人として靴を履いていません。こんなどころで靴など売れる訳がありません。」

 B「誰一人として靴を履いていません。ここはすごいマーケットです。ここならすべての人に靴を販売できる可能性があります。」

 2.列車に子連れの男が乗ってきた。彼は席に座ると黙って目を瞑った。子供たちはうるさく駆け回り、他の乗客は「親ならちゃんと注意して」と不愉快な雰囲気が漂った。我慢できなくなった乗客が「親ならちゃんと注意しなさい」と言った。すると男は「ああそうですね。すみません。今、妻が病院で息を引き取り、あの子たちに何と伝えたらいいか考え込んでしまって、、、」その瞬間、乗客たちは子供たちが騒いでいることも、注意しない男に不愉快を感じず、同情し、許してしまった。

 3.お母さんA 「うちの子は普通にすることができない。何をやらせても不服そうだ。どうしてこんなに変なのか。どうして普通にできないのか」

  お母さんB 「うちの子は普通にすることができない。何をやらせても不服で自分で納得して考えたいようだ。うちの子は自分の頭で考えられる子だ」

 パラダイムシフト:世の中の多くの人が当たり前の事と考えていた、捉え方、思想、価値観、見方を急激に著しく構造ごと革新的に異なる新しい何かに置き換えること。ニュートンの力学や天動説から地動説への変化等もこれに当たる。

 人は、物事を自分の都合のいいように見ている。第三者の言動を「それはちょっと違うのではないか」とつい批判したくなる。実際のところ相手のほうが正しい可能性があったりしても、なかなか自分の思考から変換できない。それまで生きてきた環境や学びや習慣等でそう思い込んでしまい、それが絶対になる。所謂自分の中での常識というものだ。たった一言、ほんの少し見方、考え方を変えるだけで劇的に、時には全く逆の結果になる。そしてまた人を一面だけで判断してはいけないということにもなるだろう。誰でも長所も短所もあり多面性を持っているものだから。

『 美点凝視 VOL158 』 六月のコラム 上へ

 成功する人は謙虚、失敗する人は傲慢。山を登る時は、首を垂れて登る。山を下る時は胸を張って下る。成功するまでは頭を下げるが、成功して胸を張り出すと事業が下り坂になり失敗するという意味である。

 自信は必要だが、ややもすると過信になり、慢心になり、傲慢に変わる。そして周りの人々から相手にされなくなり、破滅の道を辿る。失敗は成功の始まり成らぬ成功は失敗の始まりなのだ。傲慢な人は自分の考え方はすべて正しいと思い込み、苦言や諫言をする人が疎ましくなり、そういう人を遠ざける。

 反対に、謙虚な人は目がぐるしく変化するこの時代の中で、その流れに取り残されず、自らの変化成長を遂げるよう自己投資を惜しまない。それは経営者だろうが、サラリーマンだろうが、主婦だろうが基本的には変わらない。毎日日々に追われ、一日はアッという間だろうが、それでも「我以外皆師」の思いがあれば、成長できるヒントはいくらでも見つけることができる。

 「美点凝視」という言葉があるが、どんな人でも良い点はある。その良い点を見つけて学ぼうという謙虚さが大事。自分が正しいと思っている人間には、人の良い点が見えないし気も付かない。老若男女問わず、よく見れば良い点はある筈なのに。笑顔がいいとか、挨拶がハキハキしているとか、机が整理整頓されているとか、そういうところが美点だとおもえるかどうかも心の持ち方次第である。

 人の話をよく聞くことができるということも大きな美点。口がひとつ、耳がふたつなのは何故か?話すより二倍聞きなさいということなのだそうだ。大方の人間は聞くより話すことが好き。聞くことはある意味忍耐を要す。じっくり話を聞いてくれる人の周りには人は集まる。多くの人は吐き出すことが沢山あり、誰かに聞いてほしいと思っている。人はおしゃべりすることで気持ちが軽くなるということはおおいにあるが、聞いてくれる相手は人間がいい。ペットやぬいぐるみだとリアクションがないのでとイマイチなのだ。

 人間は放っておくと、調子に乗って傲慢になってしまうものだから、傲慢にならず、謙虚になることを保つにはそれなりの意識と努力を要する。常に意識して自分が皆に遠ざけられていないか、相談ごととかを気軽に話してもらえているか。感情に振り回されて、自分勝手なことをしていないか、などと心に止めて置くことが大事。痴呆の高齢者の中にはそれまでおとなしい人だったのに、罵声を発したり、手を付けられないほど我儘になったりする人がいるそうだ。その人の本性が現れたのだろうが、人生の晩年に傲慢にはなりたくないものだ。

『 道 VOL157 』 五月のコラム 上へ

 道   相田みつを


長い道にはなあ
どんなに避けようとしても どうしても通らなければ
ならぬ道
というものがあるんだな

そんなときはその道を
だまって歩くことだな
愚痴や弱音は吐かないでな
黙って歩くんだよ
ただ黙って
涙なんか見せちゃダメだぜ

そしてなあ その時なんだよ
人間としてのいのちの
根がふかくなるのは

 人生という長い道には避けることができない理不尽なことが多々ある。泣き叫ぼうが、誰かにすがりつこうが、その状況から脱することができない、逃げることができない、自分の力ではどうにもできない運命というものがある。

 人生は山あり谷ありというけれど、調子のいい時は何も見えず感じなかったものが、どん底になった時、見えたり感じたりする。人の気持ちの醜さやありがたさは底になった時に分かる。人は見かけによらないといわれるが、底を経験しているかどうか、そして多くの人の助けがあり這い上がれた時の気持ちを忘れないかどうか。どん底の時、愚痴や弱音を吐かず、じっと耐え、涙を見せず黙々とあるけるかどうか。

 黙々と耐えて歩いている時に人間の根が深くなる。根が深くなれば枯れることはない。枯れることがなければ、幹を太くし、枝を繁らせ、花を咲かせ、実をつけることができる。

『 家康の器 VOL156 』 四月のコラム 上へ

 豊臣英次は伯父・秀吉に切腹を命じられた。秀吉は淀君との間に秀頼が生まれ溺愛していたから、自分の後継者にするつもりで関白の地位を与えていた秀次が邪魔になって死を命じたと言われている。文禄四年(1595)のことである。

 この時、同時に細川忠興も窮地に陥った。秀次は諸大名を味方にしておくため、又、利息を稼ぐため、金銀を貸し付けており、忠興もまた黄金二百枚(1300万円)を借りていたからである。まさかこんなことになるとは思ってもいなかった忠興。

 秀次の家来が「あの黄金をすぐお返しいただければ、証文は破り捨てます。もしお返しいただけない時は、太閤の奉公所に借用書を提出しなければなりません。」と申し入れてきた。

 忠興は「それは急に用立てできない。が、これを太閤に知られたら、何らかの嫌疑がかけられ、罪に問われるに違いない。どうしたものか」と苦慮し、重臣を集めて会議を開いた。会議の席上、松井康之が「私は徳川殿の側近本多正信殿と親しく交際を続けてきました。本多殿を通して徳川殿に頼んでみましょう。徳川殿は頼もしい人なので、見捨てることはないと思います。」と言った。

 松井に発案に忠興は「自分は常日頃内府殿(家康)とそれほど親しくしている訳ではないから、頼む筋ではない。お前が本多正信と親しいのであれば、話をしてみてくれ」と答えた。そこで松井は早速本多にこれを話し、家康に話を伝えた。家康はその場で松井を呼び寄せ、人払いをし、本多に命じて唐櫃二つを開かせた。其々に黄金百枚が入っていた。「この黄金を入れた箱に書いてある年月日を見てみよ」家康。「これを見ると21年前、まだ三河におられたときですね」本多。家康は松井に「現在金銀は出納の責任者がいる。ひそかに使おうとしても、思うようにはいかぬ。だから、このように黄金を蓄えておいて、こういう時に自由に使えるよう長い年月しまっておいたのだ。今細川家の為に使うことができて、かねてからの念願を達することができる。嬉しいことだ。」と言って自ら松井に渡した。この言葉と黄金に松井がどれほど感激し、恩に着たかは想像に難しくない。松井は「細川家が続く限り、この温情は忘れません」と涙を流した。家康は「人知れず貯めていたお金を出したのです。返済は不要です。」と言った。

 その後折を見て、忠興は家康を訪ね、「かつてのお情けに報いるためには、もしもの折には家康殿の為に国も身も捨てて尽くします」と誓った。以後、忠興は肝心の時は家康の為に誠実に働いた。家康の生きた金の使い方は現在にも十分通用する見本といえるだろう。

『 フェイク VOL155 』 三月のコラム 上へ

 人はゼロで生まれて多くのものを抱えて亡くなる。というがこの世に受ける資格を得た時から多くのものを抱えてこの世に出現するのではなかろうか。それを一生かかって解き明かしていくのが人生ともいえる。生まれた意味を解き明かすために命を懸けるという意識がないと糸のきれた凧と同じになり、根無し草なり、ふらふらと一生を送ることになる。目先のことに振り回され、過ぎたことを悔やみ、先のことを憂い、最期は自分の人生は一体何だったんだろうと思いを残しかねない。

 迷った時、困った時は先人が後からくる者達に残した遺産をもいうべき人の生き方の人生訓を学べば、自らと答えのヒントがあるのに一部の人しかそれに気づいていない。何世紀にも渡り、受け継がれてきた先人の言葉は人が生きる道の真実を的確に言い当ててる。仏教、聖教、論語などはその代表格だ。

 アメリカ大統領のトランプ氏が自分の都合が悪いニュースはフェイクニュースだといって報道の統制を図っているようだが、何が本当で何が偽りなのか、何を基準にして判断すればいいのか。一方的に流されるメディアからの情報の裏をとることなんてなにのだから。

 毎日報道されている北朝鮮の金正男氏の暗殺。マレーシアの空港で起きたこの事件も真相は2週間経過した現在もはっきりしない。真実は一つなのだろうが、切り口が違うと全く違う報道になる。世界的に大きな事件は他人事で聞いていればよいが、身近な出来事はそうはいかない。自分の利害や生活に直結するような情報の信憑性が切実な問題になることもある。真実の情報でも、行き違いや勘違いによって逆に伝わることもある。人工知能ならこういうはないだろうが、人間のやることは当てにならないことも多く間違いも日常茶飯事である。もっともそれが悪い事ばかりではなく、結果的にいい方向にいくこともあるのだから、人生は面白いともいえる。

 ゼロで生まれてくるとみるか、多くのものを持って生まれてくるとみるか、よく考えたら結局おなじことではないか。積み上げるのが人生なのか、切り崩していくのが人生なのか、そんな事はどっちでもよくて、真実なのか偽りなのかもどっちでもよくて、自分が生きた証を後世の人の何人かが〇と判断してくれれば本望だろう。だから生存している「今」を大事にして、身近な先輩達の生き様を参考にして、周りの人に優しく親切に接していけば「まぁよし」ということ。その前に迷惑をかけないように自立が前提だが。

『 人は与えたものが VOL154 』 二月のコラム 上へ

 大方の予想を覆しアメリカ大統領にドナルド・トランプ氏が就任した。

  「人は与えたものが返ってくる。それが自分か子孫か分からないが。」この言葉を人に良いことをすれば子孫も繁栄する、良いこととは見える物だけでなく見えない言葉や笑顔のことをも含み、「情けは人のためならず」と同義語だとずっと思っていた。左脳ではそう思っていたが、右脳では何か変、違和感がある、とも感じていた。ある時テレビで、いじめや虐待が子供の世界だけではなく、大人の世界でも日常茶飯事に起きているニュースを見てハタと思い当たった。与えたものとは罵声とか脅しとか嫌な顔とか相手にとって嫌悪に思えることも含まれるのだと。

 人は傷つけられたり、傷つけたり、心に傷をもって生きている。傷の無い人はいないだろう。自分では全く意図しない言動が相手を不快にさせていることに気づかず、逆に自分ではとても不快なのに相手が気づいてくれず、心の傷に塩を塗ってくることもある。それでも中々面と向かって、不快だからそういうことは言わないでほしいとか行為を止めて欲しいと言い出せない。一対一ならまだしも一体複数ならなおさらのこと。厄介なことに人間の心理として複数になると抑制がきかなくなる習性がある。これは自分が複数側に立ってみるとよく分かる。面白可笑しく一人を傷つけ笑いものにする優越感の高揚は気持ちがいいものだ。

 その傷は通常成長するに従って、時間の経過とともに記憶の奥に仕舞われ忘れ去られる。後で思い出しても「ああ、あの時は嫌な思いをしたなぁ」と多くの人が修正できる能力を持っていて、ほとんどの人は逆恨みなどしない。逆恨みはしないが、その人の性格に反映され、社会人になって自分でも気がつかないうちに相手を傷つけてしまう。

 「あいつにあの時に嫌な思いをさせて悪かったなぁ」と思う人はほとんどいない。人間は嫌なことをされたことや反対にあいつにあの時奢ってやった等と自分の優位なときのことを覚えているものの、その逆はほとんど記憶にないというのが通常である。

 人はいいことも嫌なことも与え、与えられ、それが子孫に受け継がれる。極端に言えば「君のお父さん(お爺さん)にあの時助けてもらったから、君が大変な時は言ってくれ」となるか「君のお父さん(お爺さん)に嫌な思いをさせられたから君が苦しくても助けない」と言われるか。

 ということでできれば皆でお互い助け会える世の中にしたいものですね、トランプさん。

『 2017・年頭 VOL153 』 一月のコラム 上へ

 新たな年の始まり。宇宙に太陽系があって、太陽系に地球という惑星があって、地球は自転しながら太陽を公転している。公転を一年、自転を一日、一日を24時間、一時間を60分、一分を60秒と人間が決めてそのルールの中で喜怒哀楽の一生を送る。自然界はそんなことはお構いなく、自然界のルールに則って回っている。自然界には時間は存在しない。ただ、何かの大きな意志によって回っている。それを人間界では「神」と呼んだり、「天」といったりする。

 素朴な疑問として「人間」は誰がつくったのか。遺伝子解析が進む中、膨大で緻密な設計図があって人体ができるという。その設計図は誰が何のためにつくったのか。何かの偉大な力という他にないがこれをサムシンググレードと筑波大学の村上和雄名誉教授は呼ぶ。何かの拍子に眠っている遺伝子がオンになると能力が加速されたり、又オフにすると病気が快復したりするという遺伝子の研究をしている先生である。

 一般人には小難しい理屈は分からないが、いずれにせよ人間として生を受けてこの世に生まれてくることは奇跡といっていい。その奇跡の産物であるにも拘わらず天敵のいないことをいいことに人間同士でいがみ合い、我欲を満たすために無情な殺生を行っている。人間同士が争っている間に地球温暖化が進み、勝ち組も負け組も関係なく人類が滅亡してしまう危機に晒される。その時になって気づいても遅いのである。大いなる父母の自然には抗うことはできない。人間の小賢しさを自然はとうにオミトオシなのだ。いくら粋がっても人間が寄り添い従うしかない。

 今年も年頭に多くの人が「家内安全」「商売繁盛」等と祈祷する。祈りはそれで意味があるが、いくら祈っても大きいか小さいかは別にして必ずピンチはやってくる。ピンチがあるということはチャンスでもあるということ。谷があるから山があるのであって、山ばかりなら山とはいわない。生老病死を繰り返し人間界は回っていく。自分は何も悪いことをしている訳でもないのに、災害に遭ったりする。自然界は善人か悪人かは判断しない。良いも悪いも思いがけない出来事が次々と起こる。自然界は人間が予測できない深いところをマイペースで回っている。人間は自然を恐れ、畏れなくてはいけない。

 自然界には関係なく、人間が勝手に決めた新年という区切り。それでもこの区切りは大事。両手を合わせることはそこに小宇宙をつくること。その小宇宙を感じ、人としての生き方を全うする。そう祈願しえピンチもチャンスも呑み込んで、この一年悔いのない年にしたい。



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