代表 菅原

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『諸行無常 VOL92 』 十二月のコラム 上へ

諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽
諸行は無常なり 是 ( こ ) れ生滅の法 生滅滅し已 ( おわ ) って、寂滅を楽しむかな  現実に執着せず、これを解脱する。即ち、現実にとらわれず、眼前のいろいろな問題にとらわれないということ。我々の眼前の事実、我々の経験する世界、現実の世界というものはすべて取り止めがなく、儚く、変化して止まないものである。現実に必要以上に執着すると、色々な迷いを生じる。「涅槃経」(ねはんぎょう)でいう諸行無常である。

 この無常という言葉は「はかない」「自力ではどうすることもできない切なさ」という意味にもっぱら解釈されているが、そもそもの意味は文字通り「常無し」である。常住でない、不変でない、変化して止まないということ。変化して止まないから、すぐになくなる。これが第一義。花が咲いて美しい。一雨、一風で散ってなくなってしまう。美しく咲いていたと思ったら、もう散っている。変化して止まない。これが人間の情緒的には、なんだかはかなく感じる。これが第二儀。

 現実は決して執着すべき、固定的なもの、永遠的なものではない。ほんの束の間の存在であり、絶えず変化して止まない、空である。これが生滅。変化して止まないということを超越、徹底すれば「寂滅為楽」。それが人間の楽しみである。我々はみんな直接の感覚で受け取る現実に執着する、追及する、貪る。しかし、現実というものが実は変化して止まない。決してこれに執着すべきものではない。これに執着するところから、迷いや過ちが生じる。我々が身を置いている現世に徹底すると束の間の存在の意味が増す。まず現存在というものに対する愚かな執着から離れていくことである。これを否定してから、無常観、虚無感が始まる。

 鎮魂の年になった 2011 年。一瞬にして多くの命が魂となった。日本中が深い悲しみの中に沈んだ。あれから 9 ヶ月。「過ぎたことは仕様がない」と簡単には割り切ることはできないが、生きていることは一歩踏み出していること。命とはろうそくが灯っているということ。周りに光と暖かさを振りまいているということ。今年も炎を灯して年が越せることに感謝したい。

『いい迷惑』 十一月のコラム 上へ

 9月29日の参院予算委員会で公明党の松あきら議員が質問に立った。会津若松氏で小学校の給食で牛乳を飲まない児童が「牛乳を飲まない生徒は福島県民ではない。住む資格がない」等と教師にいわれ、教壇に立たされたと発言。市教育委員会が各学校に事実関係の報告を求めたところ、そのような事は確認できなかったという。市教委は事実無限として発言の取り消しと謝罪を求めた。

 この発言は日弁連のシンポジウムで、会津若松在住の女性弁護士が発表。「子ども4人と自分の体内からセシウムが検出された」「子どもたちには学校で牛乳を飲むのをやめなさいといった」と紹介したもの。ところが同市に該当するような弁護士はいないことが判明。この女性弁護士は誰?松議員の発言を受け、市教委には教師を処分しろ等の抗議の電話やメールが寄せられた。市教委は「どうして今回の話がでてきたか分からない」と困惑気味。市教委の意向を受け松議員は謝罪と議事録の訂正を行った。

 一体この騒ぎは何だったのか。質問する国会議員には重い責任がある筈だ。裏づけを取らずに国会で質問するとは言語同断。恥を知れといいたい。根も葉もないデタラメを、さも事実のように質問するということは開いた口が塞がらない。これはもしかしたら氷山の一角なのかも知れない。国会の権威とはそんなものなのか。大いに反省してもらいたい。松議員は「福島県民の心情を伝えたかった」と言い訳したが、デッチあげまでして県民の思いを伝えてほしくはない。室井市長が出向き直接抗議したが、やることが一杯あるのに市長や市教委は余計な時間と費用を使い、迷惑千万だったことだろう。

 九州電力や北海道電力での、やらせメール問題をみていて大企業の社長や会長のレベルはこんなものかと思っていたら、国会議員のレベルももんなものの類だったのだ。何とも寂しい限りだ。何を誰を信じたらよいのか分からない世の中になったようだ。何を言ったかではなく、誰が言ったか、によって判断しなければならない。上に立つ人は常に自分のことばに責任があることを忘れてはならない。

『民主主義の限界』 十月のコラム 上へ

 政治家はしゃべるのが商売である。大臣になったからといって一朝一夕に担当省の内容が分かる筈がない。普通仕事をやっていて、ある程度理解し、こなせるようになるのは3~5年は要するだろう。一人前になるには5~10年はみなくてはいけない。はい、大臣になりました、といってその仕事に通じていないことは当たり前のことだ。原稿はその道に精通している官僚が書き、大臣はそれを読み上げる。民主主義の根本はそれで成り立っている。現政権が政治家主導といっていたが、官僚がいないことには何もできないのは明白だ。だから政権運営に慣れているかどうかの違いはあるにしても、どの政党が政権を担ったとしても五十歩百歩になる。

 先日、あるイベントを鑑賞しに行った。市議、県議、国会議員が紹介されたが、皆両手をあげて「我ここにあり」と顕示欲丸出しで自分の存在をアピールしていた。某市議にある事を依頼したら、全くの空耳で聞いてもらえなかった。選挙の時とは別人である。かといってこの市議を責めることはできない。これが当たり前でこの市議は真面目な方なのだ。市議だろうが代議士だろうがこれも五十歩百歩。一度当選の味を味わい、皆から先生と呼ばれる快感を味わうと、そこから抜け出せないのが人間の性だ。人間性と社会的立場、役職は一致しないのだが、世間では選ばれた人は偉い人、立派な人と思われている。

 政治家は無責任だと憤りを感じる人は多い。しかしシステムがそうなのだから、政治家を責めても仕方ない。政治家はしゃべるのが商売で、山のような事案を少しかじったかと思うと又別の案件にとりかかる。ひとつの仕事にずっと関わることはまずない。ひとくくりでこれが政治家の仕事なのだ。政治に限らず団体や協会といった長にも同じことがいえる。政治を批評していても我ら一般人はこの先生方に何かの会合で握手を求められればにこやかに手を差し出す。これは礼儀というものだが、その人の本質をみなくてはいけない。 

 選挙で選ばれた人たちに政治を委任する民主主義の限界が垣間見える。日本に限らずどの国も財政難で喘いでいる。選挙の時、口当たりのいいことを言わないと当選できない制度ともいえる。国民が困ること嫌がることを後回しにしてきたツケが現在もドンドン膨らんでいる。震災復興の財源、年金や社会保障、ない袖は振れないのに借り入れで大盤振る舞いしてきたツケは一体だれがどのように払うのか。民主主義に替わる新たな体制はないものだろうか。

『3人目の正直』 九月のコラム 上へ

 書経に「天というものはあてにできない、天命は変化して常ならぬものだ」とある。天というものは限りない創造・造化であるから、人間の注文通りこうすればこうなるというわけにはいかない。浅はかな人間の知恵や欲望ではどうすることもできない働きがある。我一個の人間がここにいて、禍福は人間の力ではどうすることもできぬ天の命ずる所である。日常の些細な積み重ねが、天の厳粛な理法に従っていれば、自らその理法に従って必然の結果を得る。それは人の知恵や欲望を超越したものである。

 自分自身というものは決してその場その場の断片的に存在するものではなく、ご先祖様からの綿々とした生命の流れの中の今日という日が位置しており、ここに生きているということは未来への継続性を意味している。今回の震災のように突然何が起こるか分からないし、自分への影響がいつどこへどういうふうに伝わっていくか分からない。かといって自身を見失うことは本末転倒。放射能汚染の風評被害で苦しんでいる多くの関係者にはこの状況は必ず好転することを信じてもらいたい。

 菅総理が辞任し、野田新総理の下で再生に取り組む民主党。身近なところでは郡山市議選が9月4日に行われる。正直、新総理も市議も同じ位の関心度というところか。一般人からすれば何をやりたいのか何をやるのかどっちも50歩100歩というところ。人柄や顔が見えるという点では市議に軍配が上がる。

 毎年替わる総理大臣。3度目の正直ならぬ3人目の正直で、天の理法に沿った政治を望みたい。これからの日本、福島県、郡山はどうなっていくのか。これからのといってもここ1~3年のことだが、、、      

この放射能騒ぎで県民の人口が200万人を割った。夏休みを契機に避難させたという親も多いときく。一度減った人口を増やすのは至難の業だ。2人以上が集まれば必ずこういう話題になる。福島の再生方法が必ずある

『日本財団』 八月のコラム 上へ

 今回の震災で国民の多くが募金を行い、莫大な義援金が集まった。問題はそれが速やかに被災者の手元に届き、支援の力になっているかといえば、必ずしもそのような状況になっていないことにある。阪神・淡路大震災の時は地域が限定的だったが、今回は被害が広範囲にわたっている。なお、遅れることが懸念される。 

 災害救援活動を行っている日本財団では、この教訓から、犠牲者を出した世帯を対象に直ちに一世帯五万円を配った。東日本大震災の犠牲者は二万数千人だが、その半分の遺族家庭にお金を渡すことができたという。こういう場合、行政が第一に考えることは「公平」ということ。受け取る人と受け取れない人のばらつきが出ては困る、二重取りをする人が出ては困る、というわけである。公平を期すための態勢や手続きに手間取って、せっかく集められた義援金が被災者の手元に届くのが一年近くあとになる、ということになる。これでは本末転倒、真の救済・支援にならない。日本財団では、救済のお金が切実に必要な人がいるのだ、ばらつきがでてもしようがない、二重取りがあっても構わない、とにかく必要な人にお金を届けるのだ、ということで五万円を配った。結果、二重取りはほとんど見られなかった。一家族がニヵ所に分散して避難している人もいる。中には、異なる場所に避難している家族がお金を受け取ったから、とわざわざ五万円を返しにきたおばあさんもいたという。

 今回の災害では、孤立した地区がたくさん出た。情報が入らず、いったい何が起こっているのか、さっぱりわからない。日本財団ではラジオを中国から四万台調達して、孤立した地域に配布した。又漁業関係者に一億円を上限として、十七年間無利子で資金を貸し出すことにした。それに刺激されたのか、農水省も漁業者に対し、十八年間無利子で資金を貸し出す策を打ち出した。

 この種の救済・支援活動では重要なのは、現地をしっかり見て、何が最も必要とされているか見極めることだ。今回も現地は真夏の暑さなのに冬物衣料がどっと届くといったミスマッチがあった。日本財団のような多くの民間団体が支援の下支えをしていることを忘れてはならない。

『出処進退』 七月のコラム 上へ

 出処進退というものは実に難しい。古来節を全うす。特に晩節を大切にすることは大事である。仕事もでき、地位も上がるに従って、人間は益々欲も出れば、誇りも生じ、執着も強くなる。そして後進を軽視し、不満が多くなり、先輩を凌ぐ態度や行動も出がちになる。これが反逆につながる。浅ましいことだ。

 退陣表明により内閣不信任案を否決した菅総理。党内や閣僚からも「早く辞めてほしい」といわれながら、脅威的ともいえる粘り腰で総理の座に居座り続けている。震災や原発で失策を繰り返し、もうこの人がリーダーではやってられない、と総スカンを食らい、四面楚歌状態。孤軍奮闘とも見えるが、それは大義があってこそ。総理の大義は何か、国民に示してほしい。一般人からみれば、そこまで何を欲しているのか。まぁ素晴らしい太い神経の持ち主であることは間違いない。

 人間は環境に順応するとはいえ、福島県民はこの原発問題を早くなんとかしてほしい、以前の生活に戻れなくても、気持ちが安らぐ状態に早くしてほしいと切実に願っている。仮説住宅や借上げ住宅への住居供給もほぼメドがつき、次の段階に入った感がある。「禍福は糾える縄の如し」なのだが、福の光を各自が見つけ出し、生きる活力を内から湧き上がらせることができるように切に願う。物資の支援が行き渡り、今はミニコンサートや読み聞かせ、落語など文化といえる部分が必要とされ始めたようだ。人間はパンだけでは生きていけない。

 先日、毎年行っている学生時代の仲間が集まって温泉一泊の「一期一会の会」を開催。いつものメンバー8人が集まって、震災やら政治やら健康やら、ありきたりの世間話に非日常の隙間を堪能した。宿には千葉県警から応援部隊が宿泊。浜通りに出向いて任務をこなしているという。こういう支えがあって我々がこうして仲間と集まれることに感謝である。

菅総理の舵取りで大海をさ迷う日本丸。船長の座と舵を手放さない菅総理。多分自分でもいつ辞めたらよいのか分からなくなっているのではないか。出処進退を自分で決められないリーダーは組織の混乱を招き、混乱に拍車をかける。政治の混乱ぶりと福島原発の放射能問題がワンセットで毎日報じられる。それがズレにズレてボタンのかけ違いどころではなくなっている。一般国民には、手の出しようのないズレなら、政治を肴にして温泉で仲間と批評して溜飲を下げているのが関の山。そこに庶民のしたたかさと逞しさがあるともいえる

『FUKUSHIMA』 六月のコラム 上へ

 今や世界の注目となってしまった「FUKUSHIMA」。原発には原発がある地域の名前が付いているが、某代議士が福島という名前を売ろうと福島を冠したといわれる。なんと皮肉なことか。チェルノブイリなんてどこの国にあるかさえ分からなかったのが、事故後はみんな知っている。これからは「FUKUSHIMA」とチェルノブイリはセットで語り継がれていくことだろう。

 国際的危機感が薄く、経済成長により個人の繁栄を優先する人が多くなった日本人への警鐘ともいわれる今回の震災。石原東京都知事の「天罰」発言に同調する声もある。国民の多くが被災した人達の為に何かをしたいと願い、多くの人が実際に色々な形で支援している。この震災で日本人の意識が良い方向へ変わったという人もいる。果たしてそうだろうか。日本人の気質はもともと島国の閉鎖された狭い地域で「向こう三軒両隣」「遠い親戚より近くの他人」といわれるように住んでいる地域の結びつきが強く、大切にする国民性がある。地続きで隣国と常に緊張状態ある欧米諸国とは根本的に違うのである。パニックを起こさず、被災しても整然と秩序を守る所以である。原発事故で避難を強制される人達も取り乱すことはない。

 多くの人間が溺れている。真ん中に神様が乗っている舟がある。さて神様は誰から手を差し伸べて引き上げて助けてくれるか。赤ちゃんか老人か障害者か悪人か善人か。答え:神様は手の届く人から助けていく。助ける人がどういう人かは関係ない。これは親鸞の「善人なおもていやんや悪人おや」に通じる。

 今回の震災は「天罰」などではない。どこかに起こることがたまたま東日本に起きたのだ。神様の手に触れたのが東日本だったのだ。ましてや日本人の意識が変わるということもない。眠っていた気質が呼び戻されただけである。自分の意志とは関係なしに亡くなった人、家を流された人、原発の被害を受けている人、今なお避難所にいる10万人以上の人。いい悪いという次元ではなく、人間には到底及ぶことができない、これが自然界の大いなる意志である。人間は自然には逆らえない。原発は人間の知恵だが、人間が自然の一部であることを忘れてはならない。自然の方がず~っと大先輩なのだ。何年か後に「FUKUSHIMA」の名が復興のシンボルとして世界の人々に語り継がれることを期待したい。 

『 天 災 』 五月のコラム 上へ

 正に未曾有の大天災。 3 月 11 日のあの日から多くの人の人生がガラリ変わった。福島や郡山は地盤がいい方で地震に強いと言われていた。それが一瞬にして建物の崩壊、地割れ等大きな被害を受けた。そして何といって浜通りの津波の脅威。宮城、岩手でも大きな傷跡を残した。仙台は海が近いとは知っていたが、ひどい状況になった。

 「天災は忘れた頃にやってくる」とは随筆家・地球物理学者の寺田寅彦の言葉。天災は人知の遥かに及ばないものではあるが、逃げ遅れた多くの人の尊い命が失われたことはなんともやるせない。

 今現在も多くの人が避難所暮らしを強いられ、不自由な生活をせざるを得ない状況が続いている。人間はある面、肉体よりも気力で生きている部分がある。こういう生活が続くと生きる気力を失い、自暴自棄になりかねない。みんなそこをじっと我慢して、励ましあいながら生活している。避難所暮らしは不便だが、それでも顔見知りの人達がそばにいて互いに励ましあっている。阪神・淡路大震災では仮設住宅に移転した後での高齢者の死亡が多く報道されている。 4 万 8 千余りの仮設住宅が建設されたが、最後の住民が転居するまでの 5 年間で孤独死は 250 人を超えたという。今回の震災では 6 万戸以上の仮設住宅が必要とされている。住まいを失い避難所生活を強いられている人たちをみると、改めて住まいの大切さを痛感させられる。プライバシーが守られ、安心して眠ることができる住まいが人間の健康にとっていかに重要か思い知らされる。住むところがあって当たり前と思っていたが、こうなるといかに大事な空間か痛感させられる。

 地震、津波に加え福島県では原子力発電による放射能汚染、風評被害と四重苦になっている。国や東電が槍玉に挙げられているが、何とも切ない。現場で一生懸命作業を続けている関係者に頭が下がる。いつまでこの原発問題が続くか先が見えない不安が住民の不安を募っている。自分の家でありながら、避難区域や警戒区域に指定され、我が家に戻れない人が多くいる。 

 降って湧いたようなこの震災。悲観ばかりもしていられない。必ず明日はくる。まずは自分のできることから始め、身近にいる人から手を差し伸べよう。ひとりひとりができるところから始めよう。自然の脅威になすすべのない人間だが、心はいつか癒されるものだ。一歩一歩、歩みを止めなければ、必ず光は見えてくる。互いに支えあいながらも歩くのは自分。菅総理に詰め寄っても、行政を批判しても、歩くのは自分の足である。

『 徳は得なり 』 三月のコラム 上へ

  中国、明の洪自誠 ( こうじせい ) が著した「菜根譚」 ( さいこんたん ) に「徳は事業の基なり。いまだ基の固からずして、棟宇の堅久なるものはあらず。心は後裔の根なり。いまだ植 ( た ) たずして、枝葉の栄茂するものはあらず」とある。つまり「事業発展の基となるのは徳である。基礎が固くなければ家を高く建てることはできない。又、心は子孫繁栄の根である。根がなくて枝葉が茂ることはない」という意味。

 事業に限らず、家庭でも、国家でも同じことがいえる。日頃の行い、心持ちで、自分の好き勝手に生きて周りに迷惑をかけている人は、万が一その人の代にはなんとかなってもその反動が子孫に現れ、子孫がとばっちりを受け大変な重荷を背負うことになろう。ご先祖様から受け継いだ我家の大樹を大事に守り、現世をきちんと生きて、自分が子孫の根にならなければいけない。何代もの根が堆積となり基礎が固くなる。だからこそその上に今生きる人の家が高くなる。枝も葉も花も咲くことになる。

 徳とは何か。清水の次郎長が「親分が窮地に陥った時、何人の子分が助けに来るか ? 」と問われ「そんなことは分からない。それより、もし子分が窮地に陥ったら命を賭けて助けにいく」と答えたという。この言葉に現代人の生きるヒントがある。人にはその人が長年生きてきた臭いというか雰囲気がある。対面していると何となく分かるから不思議だ。いくら言葉で飾ってみてもどういう人間か感じてしまう。その人間の生き方・考え方の本質は誤魔化しが利かない。

 厳しい経済状況が続くといわれるが、事業がうまくいかないとか、失敗したなどというのは、どこか徳に反した行為があったからではないか。多くは、お客様に徳を施さないで、自分の得を先に考えたからではないか。自分の得を過大にし、客の得を少なくしたのでは徳ではない。不徳、悪徳は長続きしない。但し、徳の事業を行っていても、倒産することもある。こういう人は誰かが必ず手を差し伸べてくれ、再起できる。世の中そういう風にできているのである。徳は不特定多数の相手に対しての貯金ともいえるだろう。自分が窮した時に全く思いがけないところから引き出すことができる。我がどれだけ儲かるか、どれだけ得をするかを先に考えている人には救いの手は差し伸べられることはない。

 中東から発した民主化運動、予算法案が成立しない日本の国会。益々混沌としてきた世界と日本の情勢。管総理に退陣はあるのか、ハタマタ解散に打ってでるのか。3月危機説が現実身を帯びてきた政局。これはと思う徳ある人はなかなかいない。

『 根腐 』 二月のコラム 上へ

 「もの」に溺れ、深く考えることをしなくなった現代人。情報が溢れ、情報に踊らされ、判断基準はマスコミの受け売り。自分の存在、自分が何者なのかも、自分の生きている意味さえも明確に分からない。毎日の生活に流され、その場その場で「損得」や「感情」で言葉を発し行動する。「根」の部分を鍛えることもなく、目に見える枝葉に惑わされているのが現代の日本人だ。

 高失業率などに対するデモや暴動が拡大し、民衆の大規模なデモで退陣に追い込まれ、国外脱出したチュニジアのベンアリ大統領。23年間続いた独裁政権が崩壊した。その火の粉がエジプトに飛び火し、エジプトでムバラク大統領の退陣要求デモが大々的に報じられている。この両国以外にもヨルダンでも同様なことが起こっておりアラブ民主化運動はその動向が注目される。

 菅総理の「疎い」発言をツツいたり ( 国会は再度格上げになるにはどうしたら良いかと知恵を出すような会議であるべきと思うが ) 、芸能界で誰がくっついたの、別れたのとマスコミ報道で、なんともシ・ア・ワ・セな情報に耳目を奪われる日本人はやっぱりシアワセなのだ。そのシアワセに「根」がないことが大問題なのだが、、、アラブ民主化は命懸けで国を良くしようという民衆の気持ちが表面化したものといえる。一部の権力者が長くその権力を握っていると根が腐ることは避けられない。いい意味でアラブの民衆の気概を見習いたい。

 根がないということは臍がないということ。根はいわばその人の心の拠り所といえる。両親から授かったこの命をどう使うか。自分が自分の意思で両親を選択して、この世に生を受けたと考えれば、両親にはどんなに感謝しても感謝し切れない。親が勝手に生んだじゃないか、俺は生んでくれと頼んだ覚えはない、などという人間には根は発生しない。根がない人間にはいくら水や栄養を与えても、世の中に役立つ人間には育たない。育たないどころか世間のお荷物になったりする。

 国や地域、家族や友人関係にも「根」はある。何事にも臍がある。政治も経済も文化も中心があって廻りがあるのであって、廻りがあって中心があるのではない。何事も小さな中心から発生するものだ。アラブの長期政権のように澱んで腐ると小さな穴から新鮮な水が入り込み、そこから決壊して大きなうねりとなる。明治維新も同様だった。

 腐らないことが最善なのだが、長きに渡ると残念ながら必ず腐るものだ。だから腐る前に退くことが「根」のある人間だ。進むことより退くことが判断を要する。根腐をしないよう決断をしたいものだ。


『 怖れ 』 一月のコラム 上へ

 人は見えないものを怖れる。見えないものとは何か。ふたつある。ひとつは闇。暗闇で何も見えない中、手探りで恐る恐る手足を動かす。足元も全く見えず、一歩先は崖かも知れない。画鋲が落ちているかも知れない。手に何か触れるとビクッと思わず引っ込める。漆黒の闇は怖い。そしてもうひとつ。それは未来。自分の人生がこれからどうなっていくか皆知りたがる。この先のことを知らないが故に不安が募る。だから占いが流行る。 

 闇と未来を人は怖れる。光の中人は目に見えていると安心する。将来が約束されていると心が落ち着く。受験生なら合格。会社なら業績向上。婚活なら結婚。私の今年はこうなる、と分かっていればどんなに気が楽だろう。ところが、逆もある。受験が不合格、会社の業績は最悪、婚活は成就せず。となったらやっても無駄、アホらしくてやってられない、となる。だが、物事はすべて表裏一体。表があるから裏がある。光があるから闇がある。昼があるから夜がある。 

 先の事をあんなに心配していたのに過ぎてしまえば何ってことない、ということがほとんど。ほとんどどころか何を心配していたのかさえ忘れてしまっている。案ずるより産むが易し、なのだ。大事なことは「今ここ」を大事にし、全力を尽くすことだ。過去を引きずり振り返り、先を思い煩うエネルギーを「今」に注ぐことで活路が見出せる。今すべきことを棚に上げ、後先のことだけ考えているから、精神的に参り、鬱になる。心配事があるとすべてその事で頭を一杯にし、世界中の不幸を自分ひとりで背負っているような感覚になる。一歩引いて視野を広げれば何てことはないのである。世界中の不幸を背負うので、その分誰かの不幸が軽くなりますようにと祈願して、マイナスのことは人世のためになっているのだから、進んで背負えばよいのである。「この秋は雨か嵐か知らねども、今日の勤めに田の草を取る。」

 人生とは面白い。人は自分の目で見たものを信じる。ところが、見ているようで見ていないことの何と多いことか。思い込みや勘違い。他のことに気を取られていると目の前の事が全く見えていないことがよくある。又、見えないものを無視するかというと結構大事にしてしっかりと信じていたりする。第六感とか、なんとなくとか、閃きとか。その他、あの人がこう言ったからとか人の言動に自分が左右される。そして自分の言動が誰かを左右する。人間関係の濃淡によってその影響度が違う。自分確立していないと他人の言動に左右される度合いが大きい。そしてうまくいかないと人のせいにするのが常である。

 混迷度を増す2011年が幕を明けた。先が見えない不透明な時代といわれて久しいが、はてさてどんな年になるのやら。皆さんが心身とも健康な一年をすごせますよう祈願する。

 



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