【2012年コラム】
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『不安定な中に幸福がある VOL.93』 1月のコラム
お正月を祝う気が薄れる2012年の幕開けである。問題山積のまま越年した今年。特にこの福島県はどの方向に向かっていくか揺れ続けている。いつの世も先は読めないのが常だが、今年はどうなることやら。もっとも先が読めたからといっても、その通りにならないのも世の常でもあるのだが……
よくよく考えるに、人間というのは常に「心身の安定」を求め続ける生き物だ。「心身の安定」を求めるということは、「心身が不安定」だから。つまり人間は一生不安定な平均台の上で生きていて、地面に降りたい、降りて安定できたらどんなに楽なことことだろうと願い続ける生き物。この場合の地面とはもちろん「あの世」のこと。そこでこの「不安定」の中に、幸福感や生きがいを見つけることで、人は人としての人生をつくるのである。同じ環境の中でも考え方で場面がガラリと変わる。人はひとりでは生きられないのだから、幸福感や生きがいは自分以外の人やものから与えてもらうことになる。
うどんが入っている大きな鍋がある。周りには幾人もの空腹の人間が自分の背丈ほどの箸を持っている。相手を押しのけてやっと鍋にたどり着き、我先にうどんを食べようとするが、箸が長すぎてうどんがすべってうまく口に運べない。「長い箸が悪い、なぜすべりやすいうどんにしたのか」などと皆イラつき罵声を浴びせて、小競り合いや喧嘩が始まる。これが地獄。鍋の周りに整列し、順番を待って、自分の番が来たら、長い箸でうどんを掬って対面の相手の口に持っていき、相手に食べてもらい、相手から同じように食べさせていただく、皆ニコニコと相手に感謝をして、満腹にならないうちに次の人に席を譲る。これが天国。全く同じシュチュエーションで対極の世界が現れる。
人間の一生は不安定なのだから、この福島の現状もその一コマに過ぎない。区切りの年頭。人間界の思惑とは関係なく、天界や自然界は人間には見えない大きな力により運行している。何があるか分からないこの現世を「地獄」にするも「天国」にするも自分自身。人生は修行と捉え、不安定でもドーンと構えて動じないよう心掛けたい。
今年もよろしくお願いします。
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『苦労は報われる VOL.94』 2月のコラム
平櫛田中(ひらくしでんちゅう)(1872〜1979年)彫刻家 岡山県生まれ 本名倬太郎 1897年上京し高村光雲に木彫を学ぶ。1908 年岡倉天心に師事。1962年90歳で文化勲章受賞。代表作のひとつに「鏡獅子」がある。モデルは6代目尾上菊五郎で完成まで20年かかったといわれる。完成は平櫛が80歳の時で菊五郎はその完成を目にすることはできなかった。
「実践、実践、また、実践。挑戦、挑戦、また、挑戦。修練、修練、また、修練。やってやれないことはない。やらずにできるわけがない。今やらずしていつできる。わしがやらねば誰がやる。やってやってやり通せ」「60、70は洟垂れ小僧。男盛りは百から、百から。急くな、急ぐな、来世もあるぞ」という言葉を口にしながら制作に熱中したという。
「老年は人生を翻弄する欲を取り去ってくれる。これこそが老境の素晴しい賜物である」とはキケロのことば。老年になると若い頃に自分を悩ませていたさまざまな欲から解放される。人はその時初めて、自分が本当に願う生き方を実現できる。自分を縛っていた欲やしがらみから解放される老境になって、ようやく真の自由が得られる。自分の思い通りに行かないのは、自分の欲を優先しているから。歳をとり自分の欲を二番、三番におくようになると人との摩擦も少なくなってくる。そうすると人が集まり、敬われるようになる。若い頃とは違う自分を再発見できるのが老境というものかもしれない。
とかく人生は苦労がつきまとう。苦労の連続といってもいいかもしれない。ことばを変えて修行という言い方もできる。それが歳をとることにより縛られていく。母が子を思うように、次第に自分のことを後回しにするときの素晴らしさを認識していく。人生の苦労とは、老いの日を心から楽しみ、幸せに生きるために与えられたものといっていいだろう。
次から次に新たな事象が出てきて戦々恐々として全県で苦労している福島県。この苦労は必ず報われる。これから20年〜30年後にあの時の福島の苦労が実ったという時代がくる筈だ。それには平櫛田中の気概を持ち、目の前の今出来ることを一生懸命やることだ。107歳で天寿を全うした平櫛の生き方に学ぶべきことは多い。
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『3.11 あれから1年 VOL.95』 3月のコラム
あれから1年になる。多くの人が犠牲になった中、生かされたという思いと身近な人を亡くした深い悲しみとの狭間でこの1年を過ごした人も多いだろう。まずは鎮魂と哀悼の黙祷を捧げたい。その上で気持ちを奮い立たせ、次の一歩を踏み出す人たちも増えている。いつまでも滞ってはいられない。逆境の時の生き方がその人の将来を決める。今の県下の状況は思いもよらぬ原発事故の影響で被災県の中でも復興が遅れ貧乏くじを引いたようなものだが、世の中貧乏くじの中に結構すごい宝が眠っていたりする。真理は真に厳しく、人間の都合に合わせてはくれない。人間が真理に合わせるしかない。逃れられない闇の中にいるなら、闇を許容して光を見出す努力をしよう。人生すべて修行なんだと割り切って。
震災前の通常の日常生活でもその時々で、不満や悩みがあった筈。それが震災という大きな災害が起こり、相対的に小さくなった。震災前の日常の幸せがあまりに近くて、その幸福が見えなかったのかも知れない。震災で「絆」がクローズアップされたのもうなずける。「極楽は眉毛の上のつるしもの あまりの近さに見つけざるけり」
借り上げ住宅や仮設住宅で多くの人が避難生活を強いられている。高齢者も多く、これから先のことに不安が募ることは止むを得まい。だがヤケになってはいけない。将来のことが不安になったら、人のために何ができるか考えよう。賠償金や補助金などで避難者の中にはお金には困らないが心が満たされない人も多いときく。それのせいかパチンコ店や飲食外が賑わっていることも事実。今は同情の余地もあるが、人間志を忘れたとき、欲望に身を任せるようになる。人それぞれに志は違って当然。志とは誰かが必要としており、誰かの役に立つこと。欲望に身を任せて生きることは味気のないもの、虚しいものだ。時がくれば心を満たそうとする志を各人が探し見つけることだろう。
信心積善すれば変に遭うて恐るることなし。小さいことでいいから善を積もう。生きていること自体が善となろう。自分がどれだけ回りに影響力があるか自分では気が付かないものだが、人と人との間は磁石のようなもの。互いに引っ張り合い、反発するもの。それがいいところなのだ。相手がいなければ、波動もない。あれから1年。新たな船出と考え、1歩を踏み出そう。
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『入るを量りて VOL.96』 4月のコラム
野田佳彦総理が不退転で臨んでいる「税と社会保障の一体改革」。消費税増税をめぐり、与党内からも反対意見も多く、すったもんだの末ようやく閣議決定に漕ぎ着けた。民主党は増税反対を唱えていたが、前回の総選挙の時任期の4年中は上げない、任期のあとの増税を決めているのだからマニフェスト違反にはならない、という凄い理屈をこねている。まぁこの党の公約違反は毎度のことなので、イチイチ腹を立ててもいられないが。但し、この税の問題はまったなしだ。ここは野田総理のブレない姿勢を評価しよう。
明治政府が大蔵省を設置したとき、大蔵官僚であった渋沢栄一が予算編成に携わった。この時渋沢が基本方針としたのが「入(い)るを量(はか)りて出(い)ずるを制す」であった。税収によって支出をコントロールするというものであった。この方針が受け入れられず渋沢は官界を去り、財界で活躍することになる。
この「入るを量りて出ずを制す」はいつの世でも国家予算編成の原理原則である。今世界でこの原理原則に反した国が窮している現状をみれば、容易に分かることだ。社会保障や福祉は聞こえがいい。この充実に異を唱えたり反対することは難しい。各党は表立って反対する者がなく、誰もが賛成しやすいのだから、票集めには絶好というわけである。ところが、この社会保障や福祉は簡単に膨らむ。これらの支出が増えれば当然税金が上がる。
今日本の税収は40兆円そこそこだ。社会保障のひとつ医療費は34兆円。しかも毎年1兆円ずつ増えるといわれている。生活保護受給者は202万人、世帯数は145万世帯。1000人の内16人が受けている勘定だ。大阪では18人に1人の割合だという。当然大阪は財政赤字。そしてこれは減ることはなく、増加する傾向にある。その他、少子化高齢化対策、年金、教育、等。どこまでも増税しなければ追いつかない。
入る金でやりくりするのは至極当然なこと。票ほしさに口当たりのいい甘いことばを有権者にささやき続けてきた政治家のツケは重いのである。国民も我慢しなければいけないところは耐えなければならない。このままでは日本が破綻することも時間も問題といえよう。
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『無名兵士の詩 VOL.97』 5月のコラム
大きなことを成し遂げるために力を与えてほしいと神に求めたのに 謙虚を学ぶようにと苦悩を授かった。
偉大なことができるようにと健康を求めたのに より良きことができるようにと病弱を授かった。
幸せになろうとして富を求めたのに 賢明であるようにと貧困を授かった。
世の人々の称賛得ようと成功を求めたのに 得意にならないようにと失敗を授かった。
人生を楽しむためにたくさんのものを求めたのに 人生を味わうようにとほんの少しのものを与えられた。
求めたものは何一つとして与えられなかったが 願いはすべて聞き届けられた
神の異に添わぬ者にも拘わらず 心の中で言い表せないことは すべて叶えられた
私はもっとも豊かに祝福されていた
この詩はニューヨーク大学の壁に掲げられていて、アメリカの南北戦争に従軍した南軍の兵士が記したといわれている。
心の中で言い表せたのは前文で「心の中で言い表せないこと」とは後文。人生の真髄の詩である。「もっとも祝福されていた」とは後文部の授かったことや与えられたことに気づいた人だけが得ることができる幸福感なのだろう。
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『国家のレベル VOL.98』 6月のコラム
震災復興の途上の日本。戦後国土が焦土と化し、全国民が不屈の精神で日本を立て直した。それに比べて今の我々は1年前に大震災を通じて天がけたたましい警鐘を鳴らしたにも拘わらず、被災地以外は普通に生活ができているため、危機感に乏しい。
企業におけるV字回復はなぜ成し遂げられるのか。それは一度地獄を見るからである。社員の中に強い危機感が共有され、改革の痛みにも耐え抜く意思が生まれ、回復へと向かう。今の政治の難しさは国民の間に危機感が共有されていない点が大きい。政治家は互いに足の引っ張り合い、重箱の隅をつつくような批判のし合い、そしてそれを大きく取り上げるマスコミ。言論の自由は当然だが、国民の一体感をつくることが根底になければならない。
先の戦争は多くの若い命が散った。彼らは自分の幸せのために命を懸けたのではない。国の為、子孫の為に自らの命を擲った。今の我々にそういう切なる思いはあるのだろうか。この国の5年後、10年後の為に自分の血を流そうという覚悟があるだろうか。戦後間もない政治家に迫力があったのは、戦死していった若い世代に負い目があったからだ。彼らの為にもこの国を何とかしなければならないという切実な思いから、自分を懸命に磨こうとする謙虚さから生まれたのだ。福沢諭吉が「この人民にしてこの国家あり」と説いている。国のレベルは国民のレベルの反映である。国に不満を言う前に、まず我々が目覚めよう。国民のレベルを上げれば真のリーダーが現れるだろう。
日本国民は誠実で勤勉といわれる。その昔安世という人が司馬温公という人に、自己を完成するための要諦は何かと聞いた。温公は「それは誠だ」と答えた。さらに何から始めるか問うたところ、「いい加減なデタラメを言わないことから始めるのがよかろう」とのこと。安世はそんなことぐらい何でもないと思ったが、毎日の自らの言動を照らし合わせてみると、案外矛盾することが多いと気が付いた。今の日本はデタラメが多く、厄介なのはそれがデタラメと気がついていないという点だ。
復興の道は、一人一人が自分のいる場で真摯に己を磨き、高め、一隅を照らすことを通じて開けてくる。危機感と誠実を共有して一人一人のレベルを上げることが国家のレベルの向上につながる。
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『方丈記 鴨長明 VOL.99』 7月のコラム
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある人と、栖(すみか)とまたかくのごとし。
玉敷の都のうちに、棟を並べ、甍(いらか)を争える、身高き、身いやしき、人の住ひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ねれば、昔ありし家は稀(まれ)なり。或いは去年焼けて、今年作れり。或いは大家亡びて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変わらず、人も多かれど、いにしえ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。朝(あした )に死に、夕(ゆうべ)に生るるならひ、ただ水の泡の似たりける。
知らず、生まれ死ぬる人、何方(いずかた)より来たりて、何方へか、去る。また知らず、仮りの宿り、誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その主と栖と、無常を争うさま、いわば朝顔の露に異ならず。或いは露おちて花残れり。残るといえども朝日に枯れぬ。或いは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕を待つ事なし。
中略
すべて世の中の生きにくく、わが身と住みかとの、はかなく、あだなるさま、またかくのごとし。いはむや、所により、身のほどに従ひつつ、心を悩ますことは、あげて数ふべからず。
もし、おのれが身、数ならずして、権門の傍らにをるものは、深く喜ぶことあれど、大いに楽しむにあたはず。嘆き切なるときも、声をあげて泣くことなし。進退安からず、起居につけて、恐れおののくさま、例えば、雀の鷹の巣に近づけるがごとし。もし、貧しくて、富める家の隣にをるものは、朝夕みすぼらしき姿を恥て、へつらいつつ出で入る。妻子、僮僕のうらやめるさまを見るにも、福家の人のないがしろなる気色(けしき)を聞くにも、心念々に動きて、時として安からず。もし、狭き地にをれば、近く炎上ある時、その災を逃れることなし。もし、辺地にあれば、都へ往来にわずらい多く、盗賊の難甚だし。また、勢いのあるものは欲深く、独り身なるものは人に軽される。財あれば恐れ多く、貧しければ恨み切なり。人を頼めば、身、他の有なり。人をはぐくめば、心、恩愛につかはる。世に従えば、身苦し。従わねば、狂せるに似たり。いずれの所を占めて、いかなるわざをしてか、しばしもこの身を宿し、心を休むべき
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『CO2 VOL.100』 8月のコラム
4年に1度のスポーツの祭典。ロンドンオリンピック開催中。寝不足になっても日本の活躍を期待して応援している人も多い。「参加することに意味がある」とはいってもメダルを取る取らないでは国民の士気が違ってくる。日本のメダル量産を期待したい。
さて、鳩山元総理が打ち出した「CO2の排出量を2020年まで1990年比25%削減する」という公約を覚えている方も多いだろう。民主党は「原発は自民党が造った」というが、この公約を達成するために2030年までに14基以上の原発を造る計画を同党は進めていた。国内で CO 2 排出量を25%減らすためには、事実上原発しかなかったのである。
この原発計画は福島第一原発事故以後の社会情勢から不可能になった。今世界の電力の40%が石炭火力発電であり、特に中国は電力の多くを石炭火力で補っている。「CO2がでるからやめろ」といっても電気が足りない状態になるので止める訳にはいかない。日本の石炭火力発電の熱効率技術は世界一であり、この技術を中国、アメリカ、インドの3か国に普及しただけで、年間13億4千7百万トンのCO2が削減できる試算が出ている。これは1990年の日本のCO2排出量の107%に相当する。仮にCO2排出量削減分を、その国と技術提供した日本との2国間で分け合う「2国間クレジット方式」を採用しても、鳩山公約の25%はクリアできる。
エネルギー問題は、リアリティに、総合的に、国際的に見ることが求められる。原発推進か脱原発の2極論になっている政治家やメディアの論点は本質からずれているのではないか。大飯原発の再稼働は電力事情から止むを得ないと野田総理が判断した。安全は担保されたのか是非があるが、だからといって電力が不足になり、停電になることは避けなければならない。その狭間での判断であった筈だ。
石炭エネルギーを使う技術を獲得して産業革命が成功し、白人国家が世界に君臨した。日本が日清・日露の両戦争に勝利できたのも、石炭を産出しエネルギーとして駆使できたからともいえる。そして日本では産出しない石油が主エネルギーになり、日本は石油を絶たれ大東亜戦争へと突っ込んでいった。
戦後石油と原子力エネルギーが主流となり、その恩恵を受け日本は成長を成し遂げた。エネルギー問題を考え、エアコンを効かせながらのオリンピック応援というのも変な話だが、せめて設定温度を高めにしておくぐらいはしておきたい。
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『本質 VOL.101』 9月のコラム
ジュリアス・シーザー言葉「多くの人は見たいと欲するものしか見ない」
ゲーテ言う「人間は自分の聞きたい言葉しか聞かない」
宮本武蔵曰く「観(かん)の目は強く見(けん)の目は脆く」
物事の本質を見抜かずして、事は成り立たない。道は全うできない。現象に惑わされることなく、①目先に捉われず長い目で見る②一面だけ見るのではなく多面的に見る③枝葉末節に拘わらず根本を見る このような見る目を養えということである。
一つの物事についてその時の是か非かを見るだけで全体的な視点から考えず、その時だけの利害に拘ってそれが後世にどんな影響を及ぼすかに思いを馳せない。国政の要職にある人がこのようだと国は危ない。正道から外れ、仲良くすることばかり考えていると侮られ、制圧されてしまう。弱腰外交と批判をうける所以である。
竹島に上陸した韓国の大統領。そして天皇への非礼な発言。北方領土ロシア首相の国後島訪問。尖閣諸島香港活動家上陸。我国固有の領土に対し、露中韓が係争を仕掛けてきている。野田総理の毅然とした記者会見は当然のことを言ったまでだが、対外的発信として評価していいだろう。
国内では国会議事堂を囲む毎週金曜日のデモ。野党の問責決議案可決。内憂外患の真っ最中の野田総理。「近いうちに解散」がいよいよ熱を帯びてきて総選挙が10月か11月になると予想され、本来なら目が離せない国政の動向だが、どうも外野的な見方の人が多いように感じる。雲の上の人達がやっていることで、身近な問題ではないと距離をおいて見ているような気がする。それが若い人と思いきや年配の人にも見受けられるようだ。
目先の喜怒哀楽に揺れ動くのが大衆だが、「見たいものだけ見て、聞きたいことだけ聞く」では国は保てない。庶民が国のことを考えるいい機会ともいえる。人民がいて、領土があり、統治者がいて「国家」といえる。民衆にソッポを向かれ、領土がなくなれば統治はできない。自分の意見を自由に言え、法的な枠は当然あるものの、どこに行こうが、何をしようが、許容される日本。軍費を経済に当てることにより発展できたともいえる日本。領土問題やデモを見るにつけ、正当な近代史を理解して国のことを自分で考えられる大人でありたい。
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『注文の多い料理店 宮沢賢治 VOL.102』 10月のコラム
二人の若いイギリスかぶれの紳士が、狩りのため二匹の猟犬を連れて山道を歩いていた。「鳥も獣も一匹いやがらん。早くタタァーンとやってみたいもんだ」「鹿の横っ腹に二三発お見舞いしたらさぞや痛快だろうね」などと動物の命を省みない会話をしながら、、、しかし獲物に巡り合えず、案内人もどこかへ行ってしまい、犬達もめまいを起こして死んでしまった。
二人は帰り道が分からなくなってしまいお腹もすいてきた。ふと見ると「西洋料理店・山猫」という札が玄関に出された西洋造りの家がある。「君、ちょうどいい。とにかく何か食べよう」扉には「どなたもお気軽にお入り下さい。決して遠慮はありません」と書いてある。二人はひどく喜んで「こいつはどうだ。やっぱり世の中はうまくできているんだ。決してご遠慮はありませんというのはタダでご馳走してくれるということだろう」と自分のいいように解釈して中に入った。そこはすぐ廊下になっていて、硝子戸の裏側には「ことに肥ったお方や若いお方は大歓迎です」と金文字で書いてある。
次の扉には「当軒は注文の多い料理店ですからどうかご了承ください」そして次には「注文が多いですがどうかこらえて下さい」「ここで髪をきちんとして、靴の泥を落として下さい」「鉄砲と玉を置いてください」「帽子と外套と靴をおとり下さい」「眼鏡、財布、その他金物類、尖ったものはここに置いてください」二人はその都度それに従い、又次の扉に行くと「壷の中のクリームを手足にすっかり塗って下さい」「料理はもうすぐ出来ます。すぐに食べられます。早くあなたの頭に瓶の香水を振りかけてください」
二人「この香水は変に酢臭い。どうしたんだろう」扉の文字「いろいろ注文が多くてうるさかったでしょう。もうこれだけです。体中に壷の中の塩をたくさん揉みこんでください」
ここで二人はぎょっとしてお互いにクリームを塗った顔を見合わせた。「どうもおかしい」「西洋料理店というのは、来た人を西洋料理にして食べてやるという家なんだ」「つ、つ、つまり、ぼ、ぼ、ぼくらが、、うわぁ」ガタガタ震えながら後ろの扉を押そうとしたが、ビクとも動かない。向こうの鍵穴から二つの青い目玉がきょろきょろこっちを覗いている。二人は泣き出した。
その時後ろから「ワン、ワン、グワァ」とあの猟犬が飛び込んできた。二人がいた部屋は煙のように消え、我に返った二人は寒さと恐ろしさでぶるぶる震え、草の中に立っていた。見ると、上着や靴、財布等があっちこっちの枝にぶら下がっている。案内人の猟師が草を分けてやってきた。そこで二人はやっと安心した。二人は東京に帰ったが、紙くずのようになった顔は元のようには戻らなかった。
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『日本維新の会 VOL.103』 11月のコラム
橋下徹大阪市長率いる「日本維新の会」が正式な政党として発足した。各党から離反した現職議員9人を擁立したことで国政政党としての要件を満たしたためだ。衆院解散総選挙に向けて、今後全国に350名ほどの候補者を立て、そのうち200名以上を国会に送り込むと意気込んでいる。
世論調査によると同党の支持率は4.7%。また「期待する」は54%で「期待しない」の33%を上回った。選挙後の枠組みについては「自民と維新の会を中心とする内閣」が23%、「民主と自民を中心とする内閣」より3%多い。だが、考えてみればこれは奇妙な現象である。日本維新の会が政党になったといっても、立候補を予定している国会議員を除いて、どういう人が立候補するのか顔が見えてこない。国民の維新の会に対する期待が大きいのは既成政党への落胆の裏返しでしかない。
維新の会には期待とは裏腹に問題や課題が山積みしている。その1つが、国政政党の代表と市長の兼務問題である。橋下氏は「やってみないとわからない。」と言い、党の幹事長である松井一郎府知事は「彼はスーパーマンだから」兼務は可能だと語る。頭を冷やしてみると、そんなことできるわけがないのだ。党の本部は東京でなく大阪に置くという。ひとたび、事が起これば政党の党首は総理や大臣、関係する要人と会談することになる。そのとき大阪市議会などで重要な行事が重なっていたら、どっちを優先するのか。地理的な距離や移動時間を考えてみても、市長と党首の兼務は不可能だ。さらに、国益と地方の利益が相反する場面に遭遇したとき、兼職が帰って事態を複雑にすることも予想される。例えば沖縄・普天間基地の移設問題、日本政府は辺野古に移設したいが、地元は海外か県外に撤去してほしい。このように国益と地方の利益が相反する場合、どうするのか。
2つ目の課題は優秀な人材が見当たらない点である。そもそも鞍替えした現職の国会議員が信念を持っているとは思えない。民主党の待つの頼久氏などは、TPPに猛反対していたのに、推進派になってしまった。これでは議員にバッチを付けておきたいがために維新の看板がほしかっただけ、としか思えない。所属する党を抜け出し、維新に合流したいとする国会議員は50名近くいると維新関係者は胸を張る。しかしその大半は松野氏と50歩100歩なのだ。一方で候補者の大半は政治の素人ばかり。国会議員でもなってみrかと軽く考えている塾生も少なくない。橋下ベィビーズと揶揄される所以である。このような節操も主義主張もない人々が大量に誕生し、いきなり政権政党に入ったら……。
第三極と持てはやされる維新の会。一皮めくれば、その実態はお寒い限りの面もあることを有権者は知っておくべきではないか。
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『煩悩 VOL.104』 12月のコラム
仏教では「貪(どん)」「瞋(じん)」「痴(ち)」「慢(まん)」「疑(ぎ)」「悪見(あっけん)」の6つを六大根煩悩という。生きている限り煩悩を取り去ることはできないが、感情のコントロールをできる強い意志を持ちたいものだ。
「貪」貪(むさぼ)る心。手に入れたらさらに欲しいと思う心。お金をたくさん持っている人が成功した人という価値観が現代の主流で、資本主義の基本的構造では、お金=成功という図式になっている。貪欲は限りがない。この反対が知足、「足る」を知るということ。
「瞋」は目をむいて激しく怒ること。怒りに我を忘れてしまうほど怒鳴り散らす。権力者が怒り狂うと手が付けられない。廻りは困り果ててオドオドする。第三者からはみっともなく見える。
「痴」理性では分かっていても、つい愚かなことをやってしまう。痴情、痴漢などというように、え?あの人が!ということがある。
「慢」驕り高ぶること。自慢、放漫、慢心。自分を認めてもらいたいという気持ちが高じて「慢」になることが多い。ほどほどなら可愛気もあるが度を過ぎるのは困りもの。老若男女問わず人間は厄介な生き物である。
「疑」科学で証明されていないことは信じない心。疑い深いことが度を越すとすべてが嫌になり、人付き合いもしなくなる。ほどほどが大事。
「悪見」間違った考えかた、思い込み。少し勉強したり、小さな成功体験をして自信がついてくると、自分の考え方、物の見方に過度に執着するようになる。上には上がいると思うこと。
さて、いよいよ師走の総選挙となった。煩悩の塊のような政治家を選ばずに真に国のためになる人を選ばなければならない。十数党が乱立し、各党それぞれ言い合っているが、「帯に短し、襷に長し」の感があり、これはと思う人はなかなかいない。世論調査では自民党が第一党になる勢いだが、国力が落ちたこの国を建て直すのは容易なことではない。注目はアッという間に石原前東京都知事代表になった「日本維新の会」。どこまで票を伸ばすか。議席の数によって発言力の強弱が違う政治の世界で石原維新が発言力を強めたら、どうなるのかみてみたい気もする。
2012年もあと僅か。震災の傷跡はまだ深く、癒されるまでにはこれからの時間を多く要すことになるだろう。カサブタが少しずつ剥がれていくように、心が少しずつ元気になることを祈り新年を迎えよう。
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