【2021年コラム】
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『 水急にして VOL212』 12月のコラム上へ
「水急にして月を流さず」という禅語がある。いかに激流のような中でも、月はそんなことは関係なく、平然とその上に影を落としていることをいう。この激流とは、さまざまな煩悩妄想に振り回される人の心である。どんな思いや感情の激流にも動じない月というのは仏心を表している。
今年も12月。我々の毎日の暮らしは、朝から晩まであたかも激流のように喜怒哀楽を繰り返し、あれこれ思い考えを巡らせて暮らしている。それぞれに季節の節目があるように人生の節目はあるものの、腹が減れば食い物を欲しがり、寒ければ厚着を欲しがるように目前の欲求に気を巡らす。当たり前といえば当たり前、当然といえば当然なのだが、目前の右往左往は激流に流される月だ。因果。何かがあったら今がある。原因があったから今の現象がある。振り返れば種はあるのである。とは言ってもそれはある程度年齢を重ねて気が付くので、その時は自分で蒔いた種だなんて思いもしない。
今年という2021年も間もなく暮れる。世界、日本、福島、郡山、不動産業界、会社、個人とそれぞれにその時々で色々な出来事があったが時間が経つにつれてカラ―からモノクロームへ変わり一年前以上のこととなると色褪せてしまっている。まぁこれでいいのだ、これだからいいのだ、と思う。楽しいことも嬉しいことも、嫌なことも、辛く苦しいことも経年劣化して色褪せていく。誰かに何かしてもらったことも、誰かに何かをしてあげたことも、怒ったことも涙したことも色が消えていく。そして時々不意に思い出したように一部分が突然カラ―となり湧き出て感情として噴き出したりする。何年も会っていない親戚とか友人から突然電話があったりするのはこのような時だろう。
自分の感情を空の月のような面持ちで、激流の中でも平然と影を落とせる心境にコントロールできればこの世はなんということもない。周りからはつまらん人と思われるかもしれないが、、、目指すは動じない不動心ということなのだが、こればかりは生きてきた環境が大きく左右する。環境は選べないのか、見えない力で自分がその環境を選んだのか?だが、節がない竹は折れ易いように人間にも辛苦という節がない人ほど自暴自棄になる。今年も終わる。来年こそはと気持ちを切り替えてと思いを馳せるが思いだけでは環境は変わらない。環境を変えるべく勇気をもって次の一歩を。月の心境で。来年は寅。新たなカラ―との出会いと引き換えに2021年がモノクロームになっていく。
『 過ぎてしまえば VOL211』 11月のコラム上へ
新型コロナウイルス感染者の減少が続いて東京でも50人を切っている日が続いている。2回目を終えた人のワクチン接種率も70%を超え、トップニュースではなくなった。開催するかどうかで揉めた東京オリパラももう薄い記憶。小室圭さんとの結婚で揺れた眞子さまも無事小室眞子さんになった。10月31日に投開票された衆議院選挙も終わり、それほどの議席の変動もなく、これまで通り自公民の政権が継続される。
好むと好まざるに拘わらず季節は巡り、どんどん過去が増えていく。人生の前半と後半ではものの見方や考え方がこうも違うものかと思うことがある。年齢を重ねないと分からないことがこれほどあるとは思わなかったし、誰も教えてはくれない。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」とはよく言ったもので、その時は辛くて苦しく大変な思いをしていると思っていても、後で思い返すとなんでもなかったと思うことの多いこと。
人生生きている限り何かしらの悩みだのストレスだの嫌なことがある。もちろん嬉しいことや楽しいこともあるのだが、なんせ人は困ったことに他人が幸福を感じることを妬む習性があるようで、ネットでの書き込みはその最たるものといえる。眞子さんは小室圭さんとの結婚後、二人で会見を行なったが、その会見に対しての書き込みがまぁよく思わない書き込みが多いこと。眞子さんはやっと皇室という自由のない籠から飛び立ったのだからそっとしてあげればいいのにと思うのは老婆心か。皇室に関しては若い人と中高年ではその思いに大きな差があるように思う。天皇は身を粉にして常に国民の安寧を願い祈りを捧げている。それが年齢を重ねると段々分かってくるようだ。祈りは目に見えない。大きな「愛」である。祈りも愛も見えないが、感じることはできる。
新型コロナウイルスも東京オリパラも眞子さまの結婚も衆議院選挙も過ぎてしまえば、ああそういえばそういうことがあったなぁとなる。今年もあと2ヶ月。もしかしたらコロナの6波がくるかもしれないが、大きな事件や事故がないことを祈る。天皇ほどではないにしろ、人のために小さな祈りを捧げる気持ちは持ちたいものだ。セカセカと何かに追われて、何かを追いかけている日々だが、ちょっと立ち止まって一呼吸吸い込んで両手を合わせる余裕を持ちたい。妬む気持ちや羨む思いを少なくして。過ぎればしまえば皆美しいと思えるように。
『 新総理に望む VOL210』 10月のコラム上へ
菅義偉総理の後任を選ぶ自民党総裁選で岸田文雄前政調会長が決戦投票で河野太郎行革担当相を破り、第27代総裁に決まった。そしてちょうど100代目の総理大臣となる。菅総理は1年でお役御免となった訳だが、貧乏くじを引いた感は否めない。この1年コロナ感染の政治的判断が誤っていたのではないかとの批判から支持率が落ち込み再選の意欲を削いだ。総選挙が目前に迫っている中、菅総理では戦えないとの突き上げもあり四面楚歌の状況になった。皮肉にも再選断念の意志表示をしたころから、新規感染者が日に日に減少して各行政の判断で一部時短などの要請は続けるものの9月末で緊急事態宣言やまん延防止等重点措置は全面解除となった。
菅総理ではなく別の人が総理になっていたらもっとうまくコロナ感染対策ができたのだろうか。憔悴した菅総理の顔をみると本人が言っているように全力で対応していることが滲み出ている。結果として第5波の感染者数が大幅に増加してしまったことに世間の批評は厳しかった。ワクチン接種も概ね予定通り進み、これからという時の退陣。本人は無念なのかやり切った感があるのか心持は知る余地もないが、お疲れ様でしたと労いたい。
そして岸田新総理の元総選挙となる。このままコロナ感染が収まれば良しだが、再び第6波がやってくるようなことになれば政局が不安定になる。この10月のコロナ感染の状況によりけりで議席数に影響がでるだろう。庶民は目の前の危機を緩和してくれる政党や候補者を選択する。立候補者もまずは目先の口当たりのよい政策を打ち出す。なにしろ落選すれば「ただの人」になるのだから。各政党はコロナ対策で補助金や一時支給金や減税といった選ばれるために甘い政策を打ち出す。甘い後には苦いが待っているがそんなことは表立っていう筈もない。民主主義の暗部だ。
ブレイクスルー。2回ワクチン接種した人でも感染が確認され始めた。半年位でワクチン効果が急減して3回目の接種も必要な状況になってきた。接種後に体調を崩す人も少なからずいる。2回は打ったけど3回目はちょといいかなと見合わせる人もでてくるだろう。又、新たな変異株も見つかっており、予断を許さない状況は続く。舵取りの総理が変わって果たしてこの国をどのような方向に導くのか。甘い話だけでなく、後には苦さも控えていることを国民にメッセージとして届けられるかしっかりと見守りたい。
『 2020+1 VOL209』 9月のコラム上へ
東京2020+1と銘打ったオリンピックが無事終了。8月末現在パラリンピックが終盤を迎えようとしている。オリンピックとは違い、障がいの違いによって多くのクラス分けがされている。年齢も幅広い。特に年長のアスリートが多い。水泳や陸上など身体にユニフォームを身に着けていない部分を多くさらけ出して競技するアスリート達。オリンピックではLGBTを公言していたアスリートもいたし、パラではADHDのアスリートもいた。
時代の移り変わりと共に人々の意識も変わる。ダイバーシティは多様性と訳され、よく耳にするようになった。LGBTもADHDも普通に当たり前に受け入れる社会になりつつあると感じる。日本は欧米に比べその意識が薄く、遅れていると指摘される。それでも今回のパラリンピックを通じて同じ人間として障がいがあるからといって偏見を持ってはいけないという意識は多少なりとも植え付けられたのではなかろうか。
困っている人がいれば助けてあげたいと思う気持ちは誰でも持っている。健常者だろうが障がい者であろうが同じ人間としての感情だ。オリンピックでもパラリンピックでも国際的な大舞台に立つには日々のとてつもない努力をしている筈。それぞれの国の威信を背負い競う姿に感動し、そして相手を称え合う姿にも心が動く。
コロナ禍で無観客といういつもとは異なる環境の中、この夏世界の最大のスポーツイベントも間もなく終焉。ほとんどのアスリート達は自分を支えてくれた関係者、家族、友人そして開催にこぎつけてくれた関係者や開催を支えてくれたボランティアにも感謝のことばを数多く発していた。逆にいえば、こういう感謝の念があったから、周りから声援や後押しを受けることができて、苦しい練習を乗り越え、スタート台に立つ切符を手にできたともいえる。
このような世界的なイベントが行われている一方、そんなイベントとは全く関係なく紛争を起こしている地域もある。人間は争う動物でもある。争うを競うになれば、互いに称え合えることができるのだが、、、オリパラのアスリートは究極まで自分を追い詰め、ギリギリの紙一重の勝負をしたもの同士だから、その場に立っていることの誇りと矜持があるから、対戦相手に拍手を送ることができるのだろう。オリパラに限らず勝負ごとはそうである。大きな意味で人生は勝負。相手がいて自分がいる。勝つことは喜ばしいことだが、人生負けの方が圧倒的に多い。負けを認め相手を認めることが、克己心を養い勝ちにつながる。
『 五輪と感染者 VOL208』 8月のコラム上へ
開催直前までゴタゴタがあった東京五輪が開幕した。日本勢のメダルラッシュの活躍によりトップニュースは五輪中心。応援して見ている方も気持ちが高揚してくる。その一方で新型コロナウイルス感染者が劇的に増加。首都圏は緊急事態宣言下にあり、福島県もクラスターが各地で発生。郡山市は飲食店に8月16日午前5時までの時短要請を出した。
もう何度もの緊急事態宣言や時短要請でその効果も薄れている感がある。先日ある飲食店にランチに行った。夜も営業している店なので、夜はどうするか聞いたら、時短要請には応じず通常通りの営業をするとのこと。店主の話では他の同業者も今回は時短しない店が多いそうだ。何故か。時短した場合の協力金の申請が以前と比べ面倒になったとのこと。以前は前年の売り上げ対比だったが、今回は酒の本数が何本出したとかまで申請書に記入しなければならないようだ。大手のチェーン店のランチ時にも聞いてみたが同じような答えが返ってきた。それでもやはり客足は少なく、やり切れない思いは募るばかりのようだ。
ワクチン接種が進む中、若者を中心に感染が増えついに1万人を超えた。医療への圧迫が懸念される中、五輪は感染者を出さないように細心の注意を払いながらスケジュールをこなしている。最悪の途中で中止なんてことにならないように祈るばかりだが、なんとかこれ以上の拡大は避けたい。折角開催した五輪。アスリート達の思いを最後まで全うしてあげたい。表彰台に立つ彼らをみていると国や地域の威信を掛けて戦い抜いたその姿に感動を覚える。その場所に立つことにどれ程の苦しい時間と多くの仲間の支えがあったことだろう。常人には及びもつかない努力をしなければ、出場資格さえもとれない。その狭き門を勝ち抜き、尚且つ表彰台に立つことは世界でほんの一握りだ。
アスリートには凡人は及びもしないが、我々が今できるせめてものことは極力感染しないこと。飲食店やその関係する業者も大変な思いもあるだろうが、時短に応じなくても、とにもかくにも自分の店からは感染者は出さないことだ。
ワクチン接種者にパスポートのようなもの発行してパスポートを持っている人には時間に関係なく飲食店の利用を可能にするという動きもある。五輪によって感染が拡大したとは思えないが、結果としてやっぱり東京五輪そしてパラリンピックは開催してよかったと思えるようになってほしい。開催しない方がよかったと多くの国民が思うようならあまりにもアスリートやその関係者が報われない。
『 ワクチン VOL207』 7月のコラム上へ
新型コロナウイルス感染予防ワクチン(ファイザー製)を6月8日と29日に接種してきた。翌日に少し筋肉痛を感じたものの副反応もなくまずは一安心。
どうしようか迷いもあったが、まわりに接種する人が多くなってきたこともありまぁやっておくかという感じで。効果はあるのだろうが効果の持続期間がはっきりしないことや接種後いつから効果がでるのか諸説が飛び交い人体実験的な面は否めないがやっておくことに越したことはないだろう。
緊急事態宣言が解除されると感染者が増える。感染者が増えると重症者が増え、医療機関が圧迫される。これまでの経緯からいかに人流を抑えるか明白になってきた。20代から40代の感染者の割合が増え、デルタ株(インド株)が多いのも気になる。ワクチン接種の効果か65歳以上は感染者が減少傾向だ。
結局なんだかんだ言われる中で東京五輪・パラリンピックは開催される。ここまできたら後戻りはできない。参加するために来日したウガンダ選手の2人に感染が確認された。母国でワクチン接種してきたということで「まさか」と思ったが現実はなにがあるか分からない。これから海外からぞくぞく選手団が来日するが、大丈夫なのだろうかと思ってしまう。母国で接種したとはいえ、製薬会社によってその効果は違うようだ。正直中国製だと不安は拭えない。
先日国立感染症研究所の元所長の講演を聞く機会があった。今回のウィルスは3万の塩基があって3300個のうち1個が変わると変異株になる。去年の当初国内に入っていたウィルスは東京株でその後多くの変異を繰り返している。ワクチンはファイザー製かモデルナ製がいい。アストラゼネカは?とのこと。日本でのワクチン開発は何故遅れているのかにも言及。欧米は国策として長くウィルスや細菌の研究をしており、国家予算もつけている。それに対して日本は各研究機関や製薬会社が独自で開発している。この違いは今回のようなケースになると一目瞭然。いかに日本は能天気な国家だろうということだ。
いずれにしても、ワクチン接種が進めば感染者が減少するのだろうが、それまで再度の緊急事態宣言を出さないで済むかどうか微妙な状況になってきた。これから五輪・パラリンピック関係者が来日~競技を行い~無事帰国となること祈るばかりだが、はてさてどうなることやら。これまで経験したことがない五輪・パラリンピックになることは間違いない。外野としてテレビで声援を送って楽しむとするか。皆さんワクチン接種はしましょうね。
『 どうなる五輪・パラ VOL206』 6月のコラム上へ
東京や大阪など複数の都道府県に発令されている3回目の緊急事態宣言が6月20日まで延長された。酒類やカラオケを提供する飲食店には休業や20時までの時短営業の要請が出されている。福島県でも独自で非情事態宣言が出されていたが5月末で解除となった。宣言の効果もあり感染者数は減少傾向だ。医療関係や高齢者を優先的にワクチン接種が進んでいるが、全国民に行き渡るのは秋以降とのこと。
このような中、話題になるのが開催まで2ヶ月を切った東京五輪・パラリンピック。中止にした方がよいと半数以上の国民のアンケート調査があるものの政府とすれば安心、安全を担保して開催の意向を取り続けている。先のことを人間の能力では見通すことは不可能だが、開催しても中止にしても判断が迫っている当事者には頭が痛いことだろう。コロナ対策でも一杯なのに五輪パラが追い打ちをかけている。国の舵をとる首相の気持ちを慮ると居た堪れない気持ちにもなる。他人の大変さは分かっていても自分にとっては直接の影響がないと安堵している自分がいる。
マスコミなどで飲食店の非情さを映して出しているが、備えはなかったのかと思う。人生も世の中の動きも山あれば谷あり。飲食店は今は谷だろうが、ここを乗り越えれば山に向かう。そう信じて今はジッと我慢の時だ。あの時は大変だったと思える日が必ずくる筈。節制や節約をして、生活を見直さざるを得ない状況下である。我が国だけに限らずこのコロナは人類の生き方の見直しを迫っているともいえる。状況を変えられないのなら、この状況に合わせるしかない。人間の自然の一部で人力では測りしれない自然の大いなる意向がある。それに抗うことはできない。過去を踏まえ将来を予測することはある程度できるだろうが、すべてを見越すことなどできない。
東京五輪・パラリンピックがどうなるかこの6月で決まる。その立場立場で見る角度が違うのだから、どっちに転んでも痛みは伴う。少なくとも総意の多い方になることが望ましい。一部の団体や個人の利に帰するようなことが当然ながらあってはならない。切り札のワクチン接種が予定通りもしくは予定より早く進めば光が見えてくる。日本だけではなく各国で接種が滞りなく進めば、大手を振って開催できるのだが、、、人間の思惑通りに事が運ぶかどうか。間もなく結論が出る。
『 娑婆 VOL205』 5月のコラム上へ
「娑婆」というのは仏教語である。梵語(ぼんご)の「サーハー」の音から日本ではシャバとなった。「娑婆の空気はうまい」などというが本来の仏教語としては間違いである。サーハーは「忍耐」を意味する。極楽世界や浄瑠璃世界と違い、娑婆世界は汚辱と苦しみに満ちた穢土であるとされる。この娑婆世界がなぜ「娑婆の空気はうまい」と言われるのか。第一の意味は「苦しみが多く、忍耐すべき世界、人間が現実に住んでいるこの世界」。そしてもう一つ。「自由を束縛されている軍隊・牢獄・遊郭などに対して、外の自由な世界、俗世間」という意味。長らく束縛されたところから解放されると「娑婆の空気はうまい」という表現になるのだろう。
「娑婆」の本来の意味は忍耐。老若男女問わず、この世で生きるということはお互いに「耐え忍ぶ」この世が娑婆。この世に生きることは、苦しみに耐えることに他ならない。お釈迦様が説く「四苦八苦」。「四苦」とは生老病死。生まれる苦しみ、老いる苦しみ、病の苦しみ、死の苦しみ。更に、愛する人との別れる苦、嫌いな人と会わなければならない苦、欲求が満たされない苦、心身が思うようにならない苦。この4苦を足して8苦。何ともネガティブな話で夢も希望も何も感じられないが、これが現実。
一切は苦であり、無常の風は如何ともし難いという事実を踏まえ、その中でどう生きるのか。まずは人として正しい道理を知ること。いつ何が起こるか分からないと認識すること。次に執着心をなくすこと。執着しているうちは無常の風にあっさり吹き飛ばされる。そして精進努力。四苦八苦の世とはいえ、自暴自棄になってはいけない。精進努力によって生きる光が灯る。快楽に溺れたり、過去の思い出に耽っても問題の解決にはつながらない。
平成の時代だけでも、普賢岳の噴火、阪神淡路大震災、東日本大震災、熊本地震。令和になっても、台風や地震、そしてこの目に見えないコロナウイルスとの対峙。自然災害に限らず、人生において思わぬ事件や事故に巻き込まれたり、屈辱を受けたり、自分の思うとおりにならないことが山とある。その事象時にどのように対処するか、その人の人格が問われる。人のせいにせず、自暴自棄にならず、今自分が置かれているポジションでやるべきことをやる。決して逃げてはいけない。そうすれば、四苦八苦を受け入れることができる心境に至り、娑婆の空気もうまいと感じることができるようになるだろう。
『 食を節する VOL204』 4月のコラム上へ
水野南北(みずのなんぼく)宝暦10年(1760)~天保5年(1834)、江戸時代中期の観相学者の「幸運を招く法」、節食開運説の要点が次の10項目。
1:食事の量が少ない者は人相が不吉でも、それなりに恵まれた人生を送り、早死にしない。特に晩年は吉となる。2:食事が常に適量を超えている者は、人相が吉相でも調いにくい。手がもつれたり、生涯心労が絶えず、晩年は凶となる。3:常に大食、暴食の者は、たとえ人相がよくても運勢は一定しない。もしその人が貧しければますます困窮し、財産家でも家を傾ける。大食、暴食して人相が凶であれば、死後に入るべき棺もないほど落ちぶれる。4:常に身の程以上の美食をしている者は、たとえ人相が吉でも運勢は凶になる。美食を慎まなければ家を没落させ、出世もおぼつかない。まして貧しくて美食をする者は働いても働いても楽にならず、一生苦労する。5:常に自分の生活水準より低い程度の粗食をしている者は、人相が貧相でもいずれは財をなし、長寿を得、晩年は楽になる。6:食事時間が不規則な者は、吉相でも凶となる。7:小食の者には死病の苦しみがなく、長患いもしない。8:怠け者でずるく、酒肉を楽しんで精進しない者は成功しない。成功、発展しようと思うならば、自分が望むところの一業を極め、毎日の食事を厳重に節制し、大願成就まで美食を慎み、自分の仕事を楽しみに変えるように努めよ。さすれば自然に成功するだろう。9:人格は飲食の慎みによって決まる。10:酒肉を多く飲酒し太っている者は、生涯出世栄達はない。
水野南北は大阪で生まれ、幼くして両親を亡くし叔父夫婦に育てられた。酒と博打と喧嘩に明け暮れ無頼の徒になる。刃傷沙汰を繰り返し、悪事をはたらき入牢。牢内で人相と人の運命に相関関係があることに気づく。出牢後、人相見から死相が出ていると言われ、運命転換のため慈雲山瑞龍寺に出家を願い出る。そこで「1年間、麦と大豆だけの食事が続けられたら弟子にする」と言われ、言われた通り麦と大豆だけの食事を続けたところ、顔から死相が消えたばかりか、運勢が改善した。こうした体験から益々観相学に興味を持ち、髪結い床の見習い3年、湯屋の三助3年、火葬場の隠亡焼き3年と徹底した観相の研究をして観相学の奥議を究め南北相法を完成。節食が運勢を改善すると唱えた。さらに神仏に「ありがとうございます」と念じ、節食の実践と常に感謝の気持ちを持てば、運はさらに開け強運となると説いた。
コロナ禍で自宅での飲食が多くなっているが、やはり腹八分目がよいということだ。
『 泥棒と悪口 VOL203』 3月のコラム上へ
作家の三浦綾子氏がある本で語っていた。
「泥棒と悪口を言うのとどちらが悪いか」教会の牧師は悪口の方が罪が深い言った。大事にしていたものや高価なものを取られても、生活を根底から覆されるような被害でもない限り、いつかは忘れる。少しは傷つくかもしれないが、泥棒に入られたために自殺した話はあまり聞かない。だけど、人に悪口を言われて死んだ老人の話や少年の話は時折聞く。「うちのおばあさんたら、食いしん坊で、あんな年をして三杯も食べるのよ」と陰で言った嫁の悪口に憤慨し、その後一切食事を拒否して死んだ、という話がある。知的障がい児の三割は妊婦が三ヶ月以内に強烈なショックを受けた時に生まれる確率が高いと聞いたことがある。ある妻は小姑に夫の独身時代の素行を聞き、さらに現在愛人のいることを知らされた。それは幸せ一杯の兄嫁への嫉妬から出た言葉だった。この小姑の話に、ちょうど妊娠したばかりの妻は大きなショックを受け、生まれた子どもは知的障がいだった。
私たちの何気なく言う悪口は人を死に追いやり、生まれてくる子を知的障がい児にする力がある。泥棒のような単純な罪とは違う。それなのに、私たちはいとも楽しげに人の悪口を言い、また聞いている。人の悪口が楽しい。これが人間の悲しい性だ。もし自分が悪口を言われたら夜も眠れなくなるくらい、怒ったり、悔しがったり、泣いたりするくせに。自分は陰口を言った人を憎み、顔を合わせても口をきかなくなるのではなかろうか。
自分がそれほど腹が立つことなら、他の人も同様に腹が立つはず。それなのにそれほど人を傷つけるうわさ話をいとも楽しげに語る。私たちは自分を罪人だとは思っていない。罪深いなどと考えたりしない。「私は、人さまに後ろ指指されることはしていません」多くの人はそう思っている。それは私たちは常に二つの尺度を持っているから。「人のすることは悪い」「自分のすることはそう悪くはない」自分の過失を咎める尺度と、自分以外の人の過失を咎める尺度とは全く違う。
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新型コロナウイルスの脅威はまだまだ続いている。各自気をつけていても感染者がでることは避けられない。感染した人に対して中傷や嫌がらせをする人と自分のことを棚に上げて悪口を言っている人はどこか似ているような気がする。
『 無信不立 VOL202』 2月のコラム上へ
論語:無信不立(信なくんば立たず)弟子の子貢(しこう)と孔子の問答。
子貢:政治の要諦は何でしょうか。孔子:食を足し、兵を足し、民これを信ず。第一に人々が食に困らないようにすること、第二に軍備を整え安心して生活できるようにすること、第三に信頼を得ること。子貢:その三つのうち、止むを得ずして一つを除くとしたら、どれを除きますか。孔子:兵を去れ。子貢:残りの食と信頼を保持できないとしたらどちらを除きますか。孔子:食を除く。人は死を免れない。信がなければ立たないではないか。
このコロナ禍で生活に苦しんでいる人々が増える中、こういう時こそ「信を立て」互いに支え合っていきたい。ワクチンの目途がついたことでもう少しで光が見えるところまできた。変異ウィルスも気掛かりだが、何とか乗り越えることができそうな、全容がみえてきたような気がする。まだまだ気は抜けない状況が続くが、もう少しの我慢と思えるところまできたのではないか。「信」は人との交流によって生まれる。この閉塞感から解放され、顔を合わせて会食できる日はそう遠くはない。
『 何かできる事は VOL201』 1月のコラム上へ
2021年になった。令和も3年目。去年とは全く異なるお正月。不要不急の外出自粛、ステイホーム。家にいてなるべく人と会わないように。それでも東京は感染者が千人超えで、列島各地もその数を更新している。ここ福島でも連日感染者が出ており、クラスターが発生。東京を囲む4都県では緊急事態宣言が発令される。他にも大事なニュースが沢山ある中で、コロナはいつもトップだ。各メディアが医療崩壊、飲食店は死活問題、コロナ解雇等色んな角度から映像や音声でイマを報道している。
政府の対応が後手に回っているとの批判や中傷ともいえる過度なSNSでの投稿。日本人ってこのような民族だったんだろうか?もちろん一部の大きな声人が目立つから、そう見えるのだろうけれども。声には出さないが、なんとかしてこの難局を乗り越えよう、そのために自分が何ができるか、できることがあれば率先して手を差し伸べようとしている人の方が圧倒的に多い筈だ。昨年医療関係者に簡易にビニール袋で作れる防護服を仲間でつくり、送り届けた知人がいた。たまたまSNSで防護服の不足を知り、作り方も掲示してあったので、即行動に移した。提供を呼びかけた病院は数日の内に何万枚もの提供があり、充足したとのこと。
メディアは現状の窮状を伝えることはもちろん、手を差し伸べようとしている人に届くように、困っている人が何に困っているか、何を手伝ってほしいか、どうしてほしいかをもっと訴えてもいいのではないか。お互い様の精神は日本人の根底にまだまだしっかり根付いている。どうしたらいいのか困っているというのではなく、この状況を打破するために、このような手助けをして欲しいという声を聞きたい、そしてこれに応えたいという人は大勢いる。
大枠は政府や首長に任せ、身近なことで自分にできることはしてあげたいと思っている人への呼びかけをメディアには是非して欲しい。声を拾ってもらえば必ず届く。密を避け、マスクや消毒は当たり前にやってそれでも感染者が減らない。いつ誰が感染するか分からないリスクが常に付きまとう。それでも時計は回る。間もなくワクチンが出回るだろう。まずはそれまではお互い様の気持ちで、誰かの困ったを、一人の困ったを何人かで分け合い少しでも薄めることができたらいい。2021年はみんなで助け合うという日本人の低力が試される。今年の年末は試練が続いているのか、コロナ前の日常が取り戻せているのか。激動の1年が始まる。