【2023年コラム】
1月のコラム 2月のコラム 3月のコラム 4月のコラム
5月のコラム 6月のコラム
『 もの言わぬ草木 VOL230』 6月のコラム上へ
よく百人百様というが人に限らず動物でも植物でも魚類でも自然界には同じものはない。同じ種類の花でもまるっきり同じということはない。それぞれの個性がある。特に植物は自分で移動することはできないのでその場で一生を終える。人間でいう意識というものはないのだが、それでも自分を主張している。例えば花。見る人が花に感情移入してみるのだろうが、昨日見た花と今日見る花では違うように見える時がある。話しかけてもうなずく訳でもなく、ただそこに佇んでいるだけなのに癒される。存在感を感じる。
花や木は動かないが、感情があるように感じたり雰囲気を醸し出したり、時には叱咤激励してくれるような感覚は何なのだろう。よく考えてみると意思や感情がない方が世の中丸く収まるのではないか。なまじ喜怒哀楽があるから争うことになる。文明の発展により人間は今日の世界を創り上げてきた。競争の中で人より早く強く便利に、を追い続けた結果本来の人としての姿を見失った感がある。人類のためによかれと思い一生懸命に創り出したものがあとになって有害だったなんてことは枚挙にいとまがない。気が付いた時には後戻りできない。後処理ができない状況になってしまい途方に暮れる。処理に膨大な時間と費用をかけざるを得ない。
人生の後半になると穏やかな日々を望むのは人情だが、そうは問屋が卸さない。いくつになってもそれぞれ抱えるものがある。それも一つや二つではなく、あれもこれもといくつもある。ひとつ何とかなったと思ったら新たに思いもよらない事態が起こる。ストレスの連続はなくなることはない。なくなることはないが不思議と忘れてしまう。あとで振り返りあの時は何で悩んでいたんだっけとかあんな小さなことで悩んでいたんだと思ったりする。それが人の一生ということになるのだろう。自分自身を鼓舞して自分の生き方を全うする。
風のない地平では草は育たないそうだ。水があって土壌が良くても育たない。要は草にとって風はストレス。ということは全て生きとし生けるものは適度なストレスが必要だということだ。適度なストレスというものは年齢、性別、性格によって違う。強過ぎると心が折れ自暴自棄になるし、弱ければ人間的な成長ができない自己中心的で傲慢な人間になってしまう。草はどんなに強い風でも根をしっかり張り光の方向に伸びていく。そういう思いで花を愛でると、もの言わぬ草木には見習うべきものは多いのだと改めて感じる。
『 余力を遺す VOL229』 5月のコラム上へ
政治家でもスポーツ選手でも芸能人でも、ほとんどの人が知っているいわゆる有名人。世の中の人がその人を推し尊ぶ余り、その子供が虎の威を借る狐のごとく、自分は名門の子だ、自分の親は偉いんだと、自分も偉いような気持ちになって、驕り怠ける性格になってしまう。結果有名人の子は不肖である。まぁ極端な話だが、世間にはよくあることだ。
言われてみれば確かにずーっと代々有名人が続く家があるかというと歌舞伎とか能とか日本古来の舞踊くらいしかすぐには思い浮かばない。草木でも今年実が多ければ翌年は少ない。いわゆる裏年というやつだ。プラスとマイナス、人間の栄枯盛衰の因果関係もそういうことだろう。親があまり偉くなるということは、花が咲き実がなり過ぎるということで、子供の代にはどうしてもマイナスになる。花でも実でも枝葉でも、剪定して間引く。間引かすに果物に執着して、すずなりにならせたり、満開に咲かせたりすると、木を弱らせてしまう。だから人間も、自分の力量よりいくらか控え目にするのが良い。あの人はもっと偉くなる人だ、あれではどうも気の毒だというところで止まるのが丁度良いのである。
そうすれば子孫にいくらか余力を遺すことになる。あんな奴があんなに偉くなって、と言われるような柄にない立身出世をすると、子孫が良くない。親は自分はもっと出世できたが、子孫のためを思いここで止まった。だから子供たちも偉くなるにしてもそこそこでいいと教えておく。要は身の丈より少し低いポジションの方がいい。欲を出して下手に身の丈以上の位置になると必ずといっていいほどその反動がくるということだ。本人は、儂は偉いとか、こういうことをやったとか、何とかかんとかいい気になっているが、お前本当にそうかと尋ねられて、俺は偉いから当然だと答えられるのは余程の馬鹿か狂人だ。良心の一片でもあれば、なかなかそういうことは言えない。
そう思っていれば、人が出世したからといって羨むこともないし、自分が窓際だからといって悔やむこともない。私欲の小さな自我に囚われて、日々の生活に追われているとなかなか全体が見えないし、子孫に余力を遺すなんてことは思いもしない。今が良ければ、自分が楽しければ、が優先してしまうのが人情だ。だが、よくよく考えたらその人情でストレスを多く抱え、心と身体に支障をきたしている。悠々自適とは一歩引いて生きることで得られる生きた方なのだろう。
『 人間は自然の一部なんだけどなぁ VOL228』 4月のコラム上へ
人間は自然から生まれた。だから自然の一部。自然と対決したり離れたりしてはいけない。自然の大枠の中で創造的、活動的でなければならない。ところが自然を操作し意のままのしようとした頃から自然と対立し、人間同士も争うことになった。文明の発展は喜ばしいことだが、自然から離れ過ぎて危険を伴うようになった。物質的、機械的ともいえる。自然の法則に人間の法則を合致せしめることはできるのだろうか。
ここにひとつ面白い実験がある。アメリカのリヒターという教授とアシスタントスタッフの研究報告。実験室で飼育されている鼠と野生の鼠を比較した。実験室の鼠は自然の変化と闘う必要もなければ、食物を漁る苦労もいらない。他の動物との命がけの闘争に苦しめられることもないから、自活能力は減退し闘う能力がなくなる。多数の飼い鼠の中へ一、二匹の野生鼠を入れると、飼い鼠が多いのにも拘らず、野生鼠に追いまくられ抵抗する力もない。飼い鼠は毒物細菌への抵抗力まで失われ、何不自由のない生活にも拘らず生存競争に耐えることができなかったというもの。
あまりに人工に過ぎて自然から離れると生命力を弱める。食物は自然に近いもの、薬も薬草などの自然に近い薬を活用する。教育も概念や形式的な知識を詰め込むのではなく、生命力を活性化させる実用的な基本を身に付けさせる。本来の人間の生きる意味を自ら見出せる教育をしなければならない。地球上に存在するありとあらゆるものに何らかの意味がある。あるから存在する。文明の発展と共に生活が豊かになり自然と人間の乖離が広がった。地球もいつかは滅星になるが、そのずーと前に人類の滅亡がある。今現在この星に生存している人類のひとりとして何かを為すか残すか。又はそれほど深刻に大げさに考えずとも自分の人生を全うするかくらいは心の隅に置いておきたい。
手先の手段的なものや理論的なものではどうにもならない。人間は人間の性質を変える他ない。人間の性格を変えるとは神の領域だ。恐竜が絶滅した時のように、人間の力ではどうにもできない外的又は自然の何かの力が作用して、人間はその愚かさに気づき強引に性格を変えざるを得ない状況に陥って、はじめて、その性格を変えなければならないと気づくのか。その時は人類の絶滅に近い代償を払うことも覚悟しなければならない。自然は「だからあの時あんなに忠告したのに」と言うだろう。あの時とは今この時かもしれない。
『 否 VOL227』 3月のコラム上へ
1826年21歳・秋、ジョン・スチュアート・ミル(イギリスの哲学者。政治哲学者、経済思想家)は一種の倦怠感と憂愁に憑りつかれていた。「人生において自分の目的が実現されたと仮定せよ。自分の期待している社会機構並びに与論上のあらゆる改善が、完全に実現されたものと仮定せよ。果たしてそうなれば自分にとって大いなる喜びであり幸福であるか」すると抑えきれない自意識が明瞭な声で答えた。否。
いつの時代も改造、改革、変化、革命に狂奔している人々が存在する。大演説をやり、大論文を書いて盛んに社会の改造や変革を訴える。大衆もそういう声に耳目する。しかし果たして人間がそれによって救われるかというと答えは否。そういうもので救われるなどと考えるのは極めて浅はかで未熟な人間である。テレビ、新聞、SNS。色々なメディアを通し多くの人が主義主張、理論を語っている。ところが、本人に会ってみると大抵失望する。何故か?その人のいうところの思想、言論がその人の人格と一致していないから。その人のどこを押したら、ああいう音が出るのかと、お話にならないほど矛盾が多い。
なかなか人間というものは複雑で簡単に律することができない。虚飾、粉飾、偽装が多い。言動不一致は、例えば某政治集団が会議の時は国民の為というが、自分達だけの雑談になるとみんな虫のいい利己主義になってしまう。家に帰ると封建的暴君に変じる。人間というものは自分の都合がいいように思考が動く。然らば人間はミルのいう否を是といえる社会をつくれるのか。つくろうという意志があるのか。つくれるならそれはどういう方法があるか。人類はこの根本的な人類の問題を横に置いて、いくら文明を発展成長させたとしても、いつも自我の欲望を満たすため四苦八苦している。
人間の人間たる本質は純粋な徳性。愛するとか、報いるとか、手を差し伸べるとか、勤勉とか、、、。その徳性があって知能も技能も活きる。この徳性が不純なものならば、折角の技術や知識は危険なものになる。原子力を開発した科学技術は素晴らしい。だがこれを間違った精神で用いたならば殺戮兵器になる。人の心掛けにより正反対になる。そう人間にとって大事なものはその心掛け。幼少時の環境により大きく異なるのだろうが、どこでこの世に生を受けようが、長じるに従ってどのような教育を受けるかによって良くも悪くも人は大きく変貌する。何によって誰によって変貌できるか、若しくはできないのか。自身では選べない力が働くのだろう。ミルのいう否を是に人類はできるのだろうか。
『 滅亡まで90秒 VOL226』 2月のコラム上へ
中国の古典「大学」にある文言。緡蛮たる黄鳥丘隅に止まる。子曰く、止まるに於いて、その止まる所を知る。人を以て鳥に如かざる可けんや。(めんばんたるおうちょうきゅうぐうにとまる。しいわく、とまるにおいて、そのとまるところをしる。ひとをもってとりにしかざるべけんや)
緡蛮たる黄鳥とは、日本ではウグイスを黄鳥というが、ここでは春の鳥というくらいの意味。その鳥が小高い丘の辺りで春を告げる鳴き声がする。のどかで平和だなぁ。鳥でもどこで安んずべきか知っている。いわんや理性・知性のある人間はどこに落ち着くべきか、到達すべきかを最もよく知らなければならないのではないか。何が人類の安寧であり、幸福であるかということを知って、これを実現出来ないというのは、人にして鳥以下ではないか。鳥でも平和を愛しているのに、人間はいつも闘争ばかりやっている。というような意味。
人間の闘争本能は尽きることはない。いくらITだAIだといっても人間の本質は大昔から変わらない。否、変われないのが人間なのだろう。だからいつまで経っても争い、相手を排除しようとする。こういう人物が国や世界を動かす力を持つと世界中が混乱し、隅々の一般人にまで即時影響を及ぼす。今の世界は正にその真っ只中。一部の破壊者がルールを破り、我が意を通そうとする。随分と勝手なと思うが、所詮人の心の中はそういうもの。他人のことはいえるが、我身を振り返れば五十歩百歩ということだったりして。
コントロールできる心と出来ない心との葛藤。その解決方法は古い書物にはすべて書いてある。書いてあるが不思議なことに人類は何度も繰り返す。いくら文明が進んでも同じ過ちを繰り返すようにと天の計らいがあるのかとも勘ぐりたくなる。どこからきてどこにいくのか。永遠の真理を求め彷徨う人類。いつかはすべて消え失せてしまう儚さを知りつつ、今日という今を〇とするか×とするか。嫌なことや気に入らない出来事でも〇として捉えるかどうかでその後の運勢は変わる。せめてそう思いたい。
1月24日付けの新聞。米誌「ブレティン・オブ・ジ・アトミック・サイエンティスツ」は核戦争や気候変動などの脅威を分析し、人類滅亡を午前0時に見立てた「終末時計」の残り時間をこれまで最短の「90秒」と発表した。(2020年~2022年までは100秒だった)人間は黄鳥のようには生きていけないものらしい。
『 頼られる年齢 VOL225』 1月のコラム上へ
2023年令和5年が明けた。昨年はコロナの感染が見えない状況だったが、今年は収束の兆しが見え、マスクは外せないもののコロナ前の年始になったようで人通りも多いようだ。世界に目を転じるとロシアのウクライナ侵攻の先が見えず混沌とし、中国の台湾有事が現実味を帯びてきて、他人事ではなく覚悟が必要な年になるかもしれない。事件や事故や災害等の大きな転機がなければ日々の暮らしの変化はほとんどないと思って過ごしているが1年を振り返ってみると良いも悪いも1年前と違う自分がいる。それが5年前や10年前だとその差が大きい。
年齢とともに考え方やものの見方が真逆になることもしばしば。体力と記憶力の衰えを経験値でカバーできる上限も感じる。大きくそして小さく変わる社会情勢や身近な変化。人と人とのつながりで人脈は広がりをみせるものの何となく物足りない。老若男女や環境により感じ方が違うのだろうが、何だか軽い。人によっては大笑いできることが?ってこともある。反対に自分がこれはいいと思っても相手は?てなことも。多種多様でそれぞれがそれぞれでいいということだとは認めてはいるのだが、今の世の中何かが変。
物価の上昇が顕著で、生活が苦しい。国も給料を上げようとあの手この手を弄しているものの、企業側からしてみると働き方改革とやらで労働時間を制限して給料を上げろと言われてもなぁ、である。人の動きがコロナ前に戻る見通してがつきそうな今年は去年よりもマシだろう。物価が上がり、給料も上がり、金利も上がる。生活困窮者に公的資金がつぎ込まれているものの乗り越えられるのは一時。自ら脱して自活できるような支援が必要だ。
弱者への支援は必要だが、戦後の人々は廃墟の中から自力で切り開いてきた。その逞しさが現代人に感じられないのが何か変の答え。便利になればなるほど人間はものを考えないようになっていく。ほんの一部の人間が考え、与える側で考えない人間が与えられる側。与える側は富、与えられる側は貧。戦後の貧しい中から這い上がってきた年輩者には今の若者はどう映っているのだろう。確かに今後の日本を背負って行って欲しい若者は何人かいる。自分達が生きてきた証のエキスを注入したい若者はいる。そういう若者に自分にできることをやる。腹立たしいことも多いが微力でも何かの役に立つこと、誰かの役に立つこと、頼られれば応じることができる年にしたい。そういう年齢にもなった。