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コラム2008

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【2008年コラム】
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『2008年』 1月のコラム

新しい年の幕開け。2008年(平成20年)。平成の元号も早20年。毎年この時期に誰でも思う。良き年でありますように、世界が平和でありますようにと。

お正月に祈念したことが、勤務が始まり、学校が始まり、日常生活に戻った途端コロッと忘却の彼方にいってしまうのが、一般人の常である。多少心がけて努力していても、その内「自分には無理だ」「ここまでできればいいや」と自分に妥協して、可能性を自ら放棄してしまう。王陽明が「山中の賊を破るは易し、心中の賊を破るは難し」といっているが、今年は一年間元日の思いを持ち続けたい。

ドイツの哲学者カントは生まれつきのくる病だった。背中に瘤があり、脈拍は絶えず120〜130.喘息でいつも苦しげに喘いでいた。ある時、町に巡回医師がやってきた。父はカントを連れて診せに行った。診てもらってもどうにもならないことは、カント自身も分かっていた。医師は言った。「気の毒だな。君は。しかし気の毒だと思うのは、体を見ただけのことだよ。考えてごらん。体はなるほど気の毒だ。だが君は、心はどうでもないだろう。心までもが息が苦しいなら別だが心はどうでもないだろう。苦しい辛いと言ったところで、この苦しい辛いが治るものじゃない。君が苦しい辛いと言えば、お父さんお母さんも苦しい、辛い。言えば言うほど、皆が余計に苦しくなる。苦しい辛いと言うその口で、心の丈夫なことを喜びと感謝に考えれば良い。体はともかく、丈夫な心のお陰で君は死なずに生きているじゃないか。死なずに生きているのは丈夫な心のお陰なんだから、それを喜びと感謝に変えていったらどうかね。そうしてごらん。私の言ったことが分かったろ。それが分からなかったら、君は不幸だ。これが君を診断した私の君に与える言葉だ」

カントは医師に言われた言葉を反芻した。「心は患っていない、それを喜びと感謝に変えろ、とあの医師は言ったが、俺はいままで喜んだことも感謝したことも一遍もない。それを言えというんだから、言ってみよう。そして、心と体とどっちが本当の自分かを考えてみよう。それが分かっただけでも、世の中のために少しはいいことになりはしないか」偉大な哲学者カントの原点はここにあった

健康とは健体(すこやかな体)と康心(やすらかな心)のこと。体を健やかに保つこと。それは天地から体を与えられた人間の務めである。そしてそれ以上に大事なのが、心を康らかに保つことだ。体が丈夫でも心が康らかでなかったら、健康とはいえない。たとえ体が病弱でも心が康らかなら、生命は健やかである。これは個々の人間から小さな組織、国家まで、あらゆることに通じるであろう。

人は生きてきたように死んでいく。皆、よき生を生きたいと願う。年頭にあたり、我人生の洗い直しをして充実の一年にしたいものである。
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『決断』 2月のコラム

組織で何らかを方策を決定する際に、役員会の多数決で決めるのであればリーダーはいらない。リーダーは時として少数意見を取り入れ、決断をする場合がある。自分の判断が組織の運命を決め、社員の禍福に直結するとなると、神仏に祈り、我一命を捧げてもいいから、この道正しかれの境地になる。そして決死の形相になる。指揮官は決断のためにのみ存在する。

1904年〜1905年の日露戦争。3月10日の奉天戦は、日本陸軍の大勝利で、その時の総指揮官は大山厳元師であった。彼は実際の作戦指揮はほとんど児玉源太郎総参謀長に任せていた。とき時の軍には、勝利の勢いに乗じてロシア軍を追撃し、殲滅しようとの気運がみなぎり、国民も戦勝に酔って盛んに戦いを煽っていた。尊い幾多の犠牲者のことや、戦費のことなどは、軍やマスコミの煽りによって表面には全く出ず、世論が戦争継続を支持した。

圧倒的な戦争遂行の世論にも拘らず、大山総司令官は児玉総参謀長に東京大本営へ戻るように命じる。明治政府もこの開戦に当たって「この戦争はせざるを得ないが、現在の国力では長くは戦えない」との冷静な判断をしていた。当時その斡旋役はアメリカのルーズベルト大統領以外におらず、金子堅太郎をワシントンに派遣。結果、ルーズベルトの仲立ちでポーツマス講和条約に結びつく。後日、専門家の分析によれば、我陸軍は奉天戦が体力的にギリギリの限度であったとの説が強い。

ポーツマス講和会議の日本全権大使は小村寿太郎であった。3月10日の奉天戦の大勝利に酔い、5月27日の日本海海戦での圧倒的な勝利に日本国中の世論は沸きに沸き、マスコミの扇動もピークに達していた。日本の現状を深く理解し国家の運命を坦った小村は、賠償金すら一切求めず講和の早期成立をひたすら望んだ。大任を果たした小村を迎える世論は喧々囂々として、横浜港に上陸することすら許さない空気が覆い、世論を扇動するマスコミによって、日比谷公園や京橋の交番焼き討ち事件が発生するに至った。

昭和になり終戦直後の日本を背負った吉田茂首相は、国益を優先したからこそ昭和27年4月28日の実質の独立に辿り着き、岸内閣は60年安保の時に世論の反対を押し切り成立にこぎつけた。

国家の命運を坦うリーダーの冷静な判断があって国益が護られ、国家が保全されてきた事実がある。世にいうリーダーたち、とりわけ宰相たる者は世論を越える決断があることを覚悟して任に当たるべきである。
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『因果』 3月のコラム

人間はいくら理想をもって実践に励もうと思っても、きっかけがなければ観念の遊戯、煩悩になってしまう。その手がかりというものが即ち「縁」である。いかなる因も、因からそのまま果にはならない。因果というが因から一足飛びに果には成らない。因は何かそこに手がかりがあって、そこから果が生まれる。これを縁という。即ち縁から起こる、縁起である。因果は言い換えれば縁起である。

そこでどういう縁を持つかということが大事である。因果は「何の因果でこんな目に遭うのか」などと、悪い意味に使われるが、実は善い事も因果である。人間は善いことはあまり感じない。悪いことはよく覚えていて、深刻に考える。だから人から恵まれたこと、厚遇されたことは忘れやすいもので、いじめられたことなどはよく覚えている。善というものに対して案外感心が薄く、悪というものに対しては非常に感じが強い。毎朝新聞を読んでも、よいことが書いてあるとそれほど感じないが、悪いことが書いてあると非常に印象深く読む。フランスの詩人が「人々は、毎朝起きて新聞を見て何か非常に悪いことでもないと、今日はなにもないという」と名言を残している。そういう妙な人間の心理的な部分が因果を悪い意味で使うようになったようだ。反対に面白いことに「果報」と言うことになると、これは悪いものも入っていたが、善い事に使っている。

因果も果報も縁から起こる。人間の大事なことは縁から起こる。人を愛する、人に尽くす、人を助けるということは、道徳上もっとも本質的な問題である。しかし人類の幸福のため、世界の平和のためにやるのだ、などというのは、景気がいい。聞いていて盛んだけれど、これは事実において空虚である。世界だとか人類だとかというものは、人間の概念、気分であって、事実上の縁起にならない。本当に人類のため、世界のためというなら、直接人間の接触から始めなければならない。それは何かといえば一番は身近な家族であり、親族であり、朋友、隣人である。又職場である。そこから実践していかなければ具体的事実ではない。

つべこべ泣き言、小言を言わない。そういうことは綺麗さっぱりと捨てて、人間の大事な根本問題、本質の問題に立ち返る。そうして自分の縁から始め、手がかりをつかんで、そこを起点としてやっていく。飛び越えたいことはやらない。気分や概念に浮かされることなく、自己の確立を目指したいものである。
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『根と幹』 4月のコラム

人間には欲というものがあり、その欲からいろいろなものを望む、欲しがる、それが高じて貪る、貧欲になる。善き心理においては、進歩、向上を求める心、つまり理想というものになり情熱となる。この理想の情熱がこれほどの科学、文化を発展させた原動力になりえた。単なる肉体的・物欲的欲求には動物との差異はない。陰陽・根幹をからめ精神的・人格的・求道的欲求を検証してみる。

根から幹が出て枝葉が繁茂していく。これをそのまま伸ばし放題にしたら、枝の力は未梢化して木そのものの力が弱ってしまう。だからあまり枝葉を繁らせたり、花を咲かせたり、実をならせ過ぎると、花も実もまずくなる。そして翌年はダメになる。本当に木を繁栄させるには、正しく枝葉を刈り、剪定しなければならない。欲を出してもっと花を咲かせたい、もっと実を成らせたいと思ってはいけない。間引く事によって木の全体的な命を維持し、永続させる事ができる。分かれて伸びるという陽の働き、剪定、果決という陰の働き。そうして初めて永生が期待される。

造化の理法というものは根や幹を重んずるが、時代に分化発展していく。その文化発展を分散、混乱、破滅に陥れないで、それをいかに整え、根幹との結合を固くし、木そのものを正しい意味における繁栄に導くか、我々日常の生活、存在、人格というものをいかに整えるか。これにどう手を入れ、どう反省し、どう剪定、果決、即ち己の欲望に打ち克って修めていくか。現実を受け入れ、現実の上に立ち、選択をしていかに己を高めていくか。

ここでの問題は分化、発展してゆく過程で、多くの疲労と破滅を伴う事である。陰の働きは「統一し含蓄する働き」といえる。そして陰は表面化しない。陽は文化発展であり、直接経験であるのに対して、陰は二次的なもの、間接的なものである。欲望に対して反省である。反であり環である。

人間の堕落頽廃、破滅というものは多くは行きっきりになり、どうしても現実的になる。大事な事は文化発展よりも総合含蓄である。いかにして派生するものを統一し、根に帰するか。できるだけ幹に結びつけ、根に帰する事に力を注げば、我々の存在、生というものが確かになる。現代の我々は常にプラスの成長を良しとし、マイナスは嫌、苦労、辛い事は嫌で前進発展だけを望む。ゆえに、剪定をせず、大きく枝を伸ばし、大きな葉や花や実を自分の実力と思い違いをして誇示する。やがてひとつの時代が終わり、季節が変わった時、残るのは誰も見向きもしない貧相な幹と細い根だけ。人生の締め括りである晩年を汚さぬよう、季節に関係なくしっかりとした根と幹を持ちたいものである。
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『自己疎外の時代』 5月のコラム

新聞、雑誌、ネット等を見て思うことだが、現代はいわゆる自己疎外、人間疎外の時代といって良い。つまり自分自身を棚上げにし、自分の都合の良いように勝手に思い込み、外へばかり心を馳せて、内を忘れてしまう。

心を病んでいる現代人が多い。外にばかり心も目も向け、自分を省みない。内面をお留守にして、自己欲望の対象ばかりに思いをおく。その結果、自身を見失い、行きつくところは自分で自分自身が何者なのかわけがわからなくなる。たくさんの刺激に満ちている日常生活に自ら疲れ、矛盾や悩みを抱え込む。この刺激が自ら望んだものか否か、少し落ち着いて内省する余裕を持ち、振り返って見よう。さすればその矛盾や悩みが実に他愛ないことに気づくであろう。

何故内省する余裕がないのか。それは多忙ということ。多忙にしていないと取り残されるように感じてしまう。今の人は子供から大人まで、なにがそんなにと思うほど実に忙しい。「忙」という字は心が亡くなる、亡ぶということ。自分を亡くしてしまって、心ここにあらずになり、間違いが多くなる。そしてそれによって落ち込んだり、反対に攻撃的になったりする。躁と鬱が顕著に表れ、自分の思うようにならないとカッとなってしまう。こらえる、耐えるということをしない幼児レベルの大人が多い。

都市文明、市民生活というものは、外物の刺激が多すぎ、強すぎて、自己を疎外し、人間味が失われ、錯誤や葛藤が限りなく次々と発生する。田舎の過疎地に行ったときなど、そこに住む人々の素朴な人間味に触れたりすると、ほっとするのは少なからず誰でもあるだろう。自分の内省、自己の修練を捨てて、知識、技術や金儲けだけに走ったなら、人間はつまらなくなり、自分の生きている価値、存在価値を見出せなくなる。人間は相手が喜んでくれた時、そこに自身の価値を見出すものなのだ。水を両手で押しやれば、巡り回って自分のところに戻ってくる、「たらいの水」の教えの如く、相手が喜ぶことだけをお互いしていれば、世の中変わるのだが……。

今の日本の発展をさせた昭和のある年代まではまだ情緒、人間味があった。時間を巻き戻すことはできないが、心の育成、精神の安定、を巻き戻すことは可能ではなかろうか。自分を確立し、論語「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」の君子の気概をもたねばならぬ。自己疎外は自分を苦しめ、周りを苦しめ、社会に多大の悪影響を及ぼす。キレやすくなった現代人。そのなかで禅を組んだり、写経をしたり、内観に通う人が増えているという。人間として人間性を取り戻したい、取り戻そうともがいている現代人のひとつの現われともいえるのではないかろうか。
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『佐藤一斎』 6月のコラム

佐藤一斎は江戸末期の大儒学者で、「言志録」(げんしろく)「言志語録」(げんしこうろく) 「言志晩録」(げんしばんろく)「言志耄録」(げんしてつろく)の言志四録は代表作である。

①「一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂うることなかれ。ただ一燈を頼め」(言志晩録13条) 人は見えないもの(暗夜)に不安を感じるもの。将来のこととか、暗闇とか。とかく人は暗夜を憂うる。目の前にある一燈を頼みにして努力をすれば道は開ける。究極は自分自身が一燈になることだ。

②「われはまさに人の長処を視るべし。人の短処を視るなかれ。短処を視れば、即ちわれ彼に勝り、われにおいて益なし。長処を視れば、即ち彼われに勝り、われにおいて益あり」(言志晩録70条) 人を見るときは優れたところを見るべきで短所を見てはいけない。短所を見れば自分の方が優れていると思い自分のためにならない。長所を見れば自分の至らなさが分かり発奮するから自分のためになる。

③「講説はその人にありて、口弁にあらず」(言志晩録43条) 講義で説くことが人を納得させるかどうかは、講義をする人がどういう人格なのかによるのであって、口先の言葉にあるのではない。時間を守らない人が時間を守ろうといくら言っても誰も聞かない。

④「血気には老少ありて、志気には老少なし」(言志晩録243条) 血気には青年と老年の違いがあるが、志気にはその差はない。青年でも志気がない者もいれば、年配者でも志を持って励んでいる人もいる。いくつになっても志を持ちたいものだ。

⑤「少にして学べば壮にして為すことあり、壮にして学べば老いて衰えず、老にして学べば死して朽ちず」(言志晩録60条) 少年の時学べば壮年に自分の為すこと、即ち使命に気が付く。壮年時に学ぶと老年になっても精神的に衰えることはない。老年になって学べば亡くなってからも名を遺す。

⑥「毀誉得喪は、真にこれ人生の雲霧なり。人をして昏迷せしむ。この雲霧を一掃すれば、天青く日白し」(言志耄録216条) 人から中傷されたり、褒められたり、地位や名誉や利益を得たり失ったりすることは、人生において雲や霧のようにはかないものである。しかし人はこれに迷う。その雲霧を一掃すれば、青天の白日のように、迷うことはなくなる。

⑦「己を喪(うし)えば人を喪う。人を喪えば物を喪う」(言志録120条)己を失う、つまり自分自身を確立していないと信用がなくなり友人を失う。人も信頼を失うと物もうしなってしまう。
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『根を養う』 7月のコラム

ガソリンの高止まり、居酒屋タクシー、秋葉原での無差別殺人、岩手宮城内陸地震。次から次へと色々な問題が起こってくる毎日。年金や高齢者医療という問題もあったなぁと過去の如くの思い。官僚は「省益優先」、政治家は「党利党略」、企業は「不祥事多発」、公務員は「年金づくり」と日本人の美徳はどこへいってしまったのか。

市場経済において、競争の原理が働き価値を創造したものが社会に認知され、必要とされるのは当然のことである。屋久島の紀元杉は数千年の長寿を保っているが、例外なくこの杉にも自然界の厳粛な競争原理が働く。一定の場所で、自らの生命を守るために太陽の光を奪い合い、敗れた杉はやがて倒れる。千年杉は千年もの間、自らの知恵で生きてきた。企業も努力を怠ってはならない。

いまの日本は要求型民主主義。マスコミはいわゆる弱者の味方、強者は悪とばかりに問題の根っこ、本質をそっちのけでまるで正義の味方ごとき、視聴率を上げることを第一に考え報道する。大新聞は金次第で論調を変えるとまでいわれている。一部分ばかり見過ぎて、全体を見失う風潮が蔓延している。企業の不祥事などは当然責めを負うべきだが、あまりにも執拗な報道は嫌気を差す。例えば医療事故には直ぐに起訴が起こされる。使命感が強い医師が、一人でも多くの命を救おうとすればするほど、過酷な条件を自己に課さなければならない。救急医療に所属するドクターは、朝から晩まで24時間の執刀を2日間も続けることもあり、そこに大きな事故発生の遠因があることをもっと報道すべきである。学校の先生も一部のいわゆるモンスターペアレントに頭を痛めている。クラス全員で写真を撮った時「なぜ、自分の子が端っこに座されるのか」と問い詰める親がいる。企業、医療現場、学校にも部分的には問題点は多々あるが、全部が悪い訳ではない。何かあると自分の主張を通し、訴えを起こし、義務の放棄と権利主義が増すばかりの日本。

グローバルスタンダードの名の下に、食物やエネルギーが拝金主義の投資の対象になっている。甘い汁を吸う彼らに、苦しんでいる人達の気持ちが分かることはなかろう。

政治家の時局を見る目が失われている昨今。政治に携わる先生方には自民党とか民主党とか小さい事に拘泥せず、本質を見極める目を養ってもらいたい。仁徳天皇は「高き屋にのぼりて見れば煙立つ 民のかまどはにぎわいにけり」と国民の繁栄を喜んだ。そういう日本国に少しでも近づけるように願って止まない。
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『道心』 8月のコラム

どのような時代でも人間は邪悪な忌まわしい動物ではない。よく指導、教育すればいくらでも良くなる。しかしながら昨今望みがないからということで努力をせず、人生の略奪戦に加わり、分け前にあずかろうとか、自分だけに都合よいものにしてやろうなどと考える人が多くなっているのではなかろうか。

人間には道心と人心の二つの心があるといわれる。道心とは本来人が人として歩むべき道、生き方のことであり、人心とは人を傷つける欲望のことであり、自分も粗末にする愚かな心のことである。道心ばかりの人はいず、人心ばかりの人もいない。どんなに人心が強い人でも必ず道心を持っている。罪を犯した人にも道心の訓練が不足していただけで、欲望だけの人間ではない。人間には誰もがそうした紙一重の危うさが伴っている。

人心が強い人は私心を持ち、物事に執着し、人の言う事を聞かず、頑なに自分の考えを主張する。どうしても自己中心に考える。そして困ったことに当の本人がその頑なさに気づかず、周りをかき回している。これは男女、年齢に関係なくちょっと見渡すと身の回りに多くの人がいることに気がつく。そこで自分が該当しているかも知れないと省みて、気がつき、修正していく必要がある。

大切なことは道心をきちんと教え、教育すること。人間はほっとくとどうなるか。人間ではなくなる。人は指導を受け、学ぶことにより人間になる。

ちょっと昔まで、なぜ人を殺してはいけなかいか。などということは人間の本来あるべき姿として感覚的に誰もが分かっていた。今、ゲームやテレビや携帯電話の画面で育った子供たちや青年たちが、なぜ人を殺してはいけないのか、と質問をする世の中になった。それに対してきちんと答えられる大人がいない。

その時代時代で大きく世の中が変わっていく。生まれた時から携帯電話がある時代がきた。10年前には考えられない時代を今我々は生きている。これからの10年後は予想もつかない世の中になっているかも知れない。いつの世にも変わらない道心を次の世代にしっかり受け継がなければならない。生命のあるものは必ずその灯が消える時がくる。死んだあとに残るものは集めたのもではなく、与えたものである。今こそ一人ひとりが一人一人に与えなければならない時代ではなかろうか。
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『北京五輪に思う』 9月のコラム

北京五輪に沸いた8月。甲子園の高校野球では福島県代表の聖光学園がベスト8に勝ち進んだ。プロ野球やイチローの活躍は隅みに追いやられたかっこうのスポーツ面。いずれにせよ、世界の祭典の五輪は表向き成功だといわれている。

人権問題、大気汚染、報道規制、テロの脅威等色々な問題や懸念があった中、北京五輪は無事閉会した。花火の合成写真、口パクなど「やらせ」ともとれる演出に違和感を覚えた日本人も少なくないだろう。

いかに平凡であっても人間であるからには、神秘な部分を持っており、真剣に取り組んだらいかなる運命をも打開することができる。五輪に出場できるのは世界で選び抜かれたアスリート達だけ。安逸な生活に流されないよう常に自分を律し、倦まず弛まず血の滲む思いで、努力に努力を重ね必死の覚悟があって初めてあの大観衆の賞賛を浴びることができる。自分の力で勝ち取った代表の座であるにも拘らず、勝っても負けてもインタビューを受けた選手達は口々に「感謝」という言葉が心の底から出ていた。真剣勝負の中、人々に涙が出るほどの感動を与える彼らに観戦している我々こそ感謝したい。凡人には及びもしない辛さと本人しか分からない涙があったことだろう。

肉体だけではなくメンタルな部分が大いに関係する勝負。せめて我々は気持ちだけでも明るく前向きに生きていきたいと思う。一番最後の呼吸の時自分に金メダルを送れるような人生を送りたいものだ。日本の選手団に限らず選手は力の限り戦う。そして戦いの後はお互いを讃え合い素晴らしい笑顔になる。

常に地球のどこかで戦争が起きている。ロシアがグルジアに侵攻し、同じ時期に五輪では両国の選手が戦いを終え握手している。このギャップは大きく人間界の矛盾はどうしたものか。そしてオリンピックどころか、今日食べるにことかく人々も地球上には数多くいる。裏と表、光と陰は必ずつきものだが、4年の一度のスポーツの祭典は戦争と平和、富と貧困を考える良き機会ともいえるだろう。

選手達が流した感激の涙、そして素晴らしい笑顔は神様からの贈り物。祭りが終われば、一抹の淋しさが残るのも常。4年後のロンドンでも素晴らしい選手たちの活躍を期待し、一緒に感激の心動を味わいたい。そして4年後は戦争等ない地球になっていますように……
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『不知国有』 10月のコラム

福田総理の政権投げ出しともいえる突然の辞任、三笠フーズに始った一連の汚染米問題、米国のリーマンブラザーズの破綻、AIUの救済等の一連の金融不安、そして麻生新総理の誕生。

19世紀末の英国の歴史学者バーカーが「領地だの物資だのというものが、その国の偉大さに本質的に関係があるものではない。真にその国の偉大さとは、国民の能力、国民の精神である。これらの旺盛な国民はどんなに困っても必ず勃興する。航海に例えをとれば、よく規律があり訓練されている乗務員がいれば荒海をくぐり抜けることができるが、秩序の乱れた精神のこもらぬ船員たちでは沈没の危険がある、と同じである。その意味において政党政治は非常に注意を要する。国あることを知らず、ただ党あることを知り、その党よりも実は己の利を図るというようになると政党が堕落する。そしてその国は衰退する。だから、己よりも党、党より国家という精神に燃えた政党員を作らなければ国民のために危うい」といっている。

最近、名士・偉いといわれている人に会う機会もそれなりに多くなってきて、講演なども聞くが、ああなんとつまらないことを言う人なんだろう、人間的に幼稚なんだろうと思わずにいられないような人がいる。こんな人によって教育や政治や社会事業が行われたのではたまらないと、密かに嘆息させられることが少なくない。

日本はこれから益々物事が難しくなる事は必定。この1ケ月だけでも上記の如く。これから総選挙となると、本物と偽者を区別して選別しなければならないが、どうみても本物、本当にことばの通り実践してくれるような政治家はなかなか見当たらない。皆、偽者ばかりに見えてしまう。そういっていられないので、投票には行くのだが……党利党略はもういい。空論ももういい。地に足の着いた政治を望みたい。

それにしても100年前のバーカーのことばが今日の世にも通じるとは、人間とは本質的に進歩しないもののようだ。否、バーカーに限らず聖書、論語、仏法などは2千年以上前なのに、現代人に受け入れられている普遍の書である。歴史を学べば、これからの世が見える。秋の夜長、聖人・哲人の昔のことばに耳を傾けても悪くはない。一灯照隅、万灯照国。まずはひとつの灯りを灯そうではないか。
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『脳の話』 11月のコラム

円高、株価急落など金融危機の真っ只中、企業の業績が目に見えて悪化しているが、今月は脳の話を。

脳の細胞は成人を迎えるとそれ以上に増えることなく減る一方である、というのがこれまでの長い間の常識だった。ところが、脳はいくつになっても成長を続けるという研究がなされている。

これまでの脳研究はサルとヒトというように種の単位で行われ、人間は皆同じ脳を持つという前提で進められてきた。しかしここにきて個人ベースで脳を見ることができるようになり、様々な事実が浮かび上がってきた。MRIで撮った写真には、脳の様々な場所を結んで情報をやりとりする繊維が映し出される。この繊維はその人の人生経験によって伸び、脳内で縦横に張り巡らせれる。思考タイプや生活習慣、職業等によって使われる脳の場所が異なり、脳を見れば、その人がどんな人なのか、これまでどんな人生を歩んできたか、これからどんな可能性を持っているかが分かるという。

脳細胞はある年齢に達すると減少し老化もするが、一方で一生かけても活用しきれないほどの膨大な潜在能力がある。社会における活動を通じて能力を構築し生涯、脳細胞を目覚めさせ続けることが大事で、自分の脳を若く保つ秘訣でもある。

脳は安穏と使っていては伸びない。強すぎるストレスは弊害をもたらすが、逆境に立ち向かい、それを乗り越えることも、脳を大きく活性化する。逆境というのは、それまでの脳の使い方では対処できずに陥るものだから、脳の使い方を変えれば、逆境は乗り越えられる。

これまで脳の形成は、その人の生まれ育った環境に依存し偶然に任せられてきた。今後は意図的に脳の形づくりをしていくことが可能になる。従来は何百年に一人くらい稀有な人物が現れて社会を変えてきたが、これからは個々人が脳を育てるようになる世の中になるかも知れない。人生には定年などないのだからいくつになってもこの実社会に携わって必要な人間になることが肝要である。強い意思と目的を持ってまっしぐらに進む人の脳が著しく活性化されることは承知のこと。漠然と人生を過ごしてはいけない。
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『2008年の終りに』 12月のコラム

日本国の代表である麻生総理が野党第一党の小沢党首を「信用できない」といい、小沢党首は「チンピラの言いがかり」と不快感を示す。自分たちが安全な場所にいて庶民のレベルとかけ離れている状況にいてのやりとりに一体何をやっているのかと言いたくなる。

岡上菊栄(おかのうえきくえい)坂本竜馬の姉・乙女の子として生まれ、その生涯を孤児・貧困児の養育に捧げ「社会福祉の母」と呼ばれた人物である。

菊栄は非常に恬淡としていて、困っている人には何でもその場で「どうぞ、どうぞ」とお金や物を差し上げたという。時には、自分の着ている襦袢をその場で脱いで貧しい人に上げたという。麻生・小沢両氏にこの人の爪の垢でも煎じて飲ませてあげたい。

さて、人の評価、見得、名誉欲、出世欲、金銭欲、、、世間体を気にして無駄なことに時間を使ってしまうのが凡人だが、人生を無駄にしない生き方は、学んだことを実行することだ。学んだことはすべて自分の役に立つ。自分の見聞きするもの、自分の手にするものの価値は、その人の意識によって全く異なる。あらゆるものの中に価値を見出し、それを生かしていこうとする心構えから、人生は大きく開ける。大きく見れば、現在の状況は皆同じである。その状況をチャンスと見るかピンチと見るかによって、極端にいえば全く逆の結果になりうる。株価の不安定、金融危機が依然として懸念される中、個人も企業も国家も、この状況をどの角度から見るかである。

皆幸せになりたいと願うが、それは我欲と紙一重。相手が幸せにならないと自分が幸せにならないこと位理解していてもいい大人のなんと少ないことか。口当たりの美味しく感じるものを毎日満腹まで食べていれば、病気になること位分かっているのに、食べてしまう人のなんと多いことか。病気にはならないまでも健康でない人を未病(みびょう)と呼ぶそうな。糖尿病予備軍等、先進国に暮らす多くの人に今この未病が急増している。

すべての人がそうだとは思わないが、自分の側からしかものが見えない人は、ピンチだと思い、未病の範疇にいるのではないかと思ったりする。

最後に。今年もこれで終りの月を迎える。毎年のことながら、まずは会社やスタッフに事件・事故がなく、そして病気もせずに12月を迎えられたことに大いに感謝したい。又、今年もお客様、大家さん、地主さん、友人、知人、その他多くの方々に支えていただいた。深く御礼申し上げたい。今年も一年間本当にありがとうございました。又、来年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
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