【2025年コラム】
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『 人類の安寧 VOL253』 5月のコラム上へ
20世紀の文明と文化は西欧的な合理的の精神が築いたものといえる。その個人的な物の見方、感じ方、考え方、要するに物事を分析、解明し、論理的に組み立てていく思考方法が、エネルギーになっていた。結果、現代の物質的に豊かな社会をもたらし、同時に、多岐多彩にわたる国際社会の諸現象を派生した。それが、次第に異文化の尊重、相互に融和し合う精神を失い、自己本位の争い事が絶えない世界へとなった。
20世紀に限らず、いつの世にも争い事は絶えないのだが、21世紀になって4分の1が過ぎた今もその状況は変わらない。一体人類は何を学んできたのか。もの凄い勢いで目に見える物質的進歩はしている。物質的進歩と同じくらい精神面が進歩しているのか。益々、自分主義の独善的、排他的な傾向が顕著になっていくようだ。今だけ、自分だけ、金だけ。自分を中心に世の中回っているならそれでもよかろう。それぞれの自分ファーストが争い事を助長して、終わりのない争いを続けている。力のあるものが力任せに圧力をかけ、力のないものが淘汰される。残った者同士が更に力で相手を屈服させるべく、力をつけようと躍起になる。力と力のぶつかり合い、どちらかが白旗を上げるまで争いを続ける。結果、最後に得るものは一体なんなのだろう。勝者はいるのだろうか。易姓革命の歴史を繰り返してきた現在の中国、ローマ大帝国の歴史が教えているではないか。
人類の争いを止めることはできないようだ。常にどこかの地域で争い、殺戮が行われている。物質的に豊かになればなるほど反比例して精神は置きざれにされ、その差は開く。そして貧富の差となり、富のある者、権力のある者が牛耳ろうとする世界が続く。いい加減、目覚めてもいいと思うのだが、人間の欲望をいうものは留まるところを知らない。おそらくこれまでのように、これからもこの星に安寧が訪れることはないだろう。そう、歴史が物語っている。自分ひとりで世の中を変えるなんてことはできないかもしれないが、誰かに優しい人間でありたい。
郡山のリーダーが新たになる。初心を忘れず、市民に優しい市政を望む。但し、郡山だけ良いということはない。郡山ファーストでなくても大局を鑑みてしっかりとかじ取りをして欲しいと願う。我々市民も後押しができるよう心掛けておかなければなるまい。足元の思いやりの一歩が最終ゴールの人類の安寧に結びつく。
『 悪口 VOL252』 4月のコラム上へ
人は悪口やネガティブな言葉が多いと心身にどのような影響を受けるのか。精神科医の樺沢紫苑(かばさわしおん)氏は悪口の心身への影響について、想像以上に脳と身体に悪影響を及ぼす、脳と身体へのストレスが増えて、不安や恐怖を感じやすく、認知症のリスクが高まり寿命も縮まるという。また東フィランド大学の研究によると、世間や他人に対する皮肉、批判度の高い人は認知症のリスクが3倍という。悪口を言い続けていると、ストレスホルモンであるコルチゾールを分泌する。コルチゾールは、記憶の保存に関わる海馬の神経を破壊し、前頭前野の神経ネットワークのつながりを40%も破壊する。悪口を言うことで、認知症を発症するほどのダメージを脳に与えるということだ。
「ポジティブ思考」と「ネガティブ思考」の人を比べた研究では、「ポジ」の人は「ネガ」の人より10歳以上長生きし、心疾患の発症率が半分以下との検証結果がある。つまり皮肉・批判的な人は死亡率が高いということ。悪口を言うとアドレナリンが出る。一日の中で何度もアドレナリンを出す生活は心臓に悪い。
よく居酒屋等の飲み屋で上司や会社の悪口大会が開かれていたり、ママ友仲間で、姑や夫の悪口を言い合っていたりする。悪口を言う人は「悪口を言うとスッキリする。悪口はストレス発散になる」と言うが、これは間違い。競技や喧嘩をしている人はアドレナリンが出る。戦闘状態になるとアドレナリンが大量に分泌される。悪口は言葉による攻撃。悪口を言っている時、脳は戦闘状態となり、アドレナリンを分泌する。アドレナリンによる高揚感は「楽しい」と認識され、脳の過剰な興奮を「ストレス解消」と誤認する。
誰でも悪口を言われると、とても嫌な気持ちになるだろう。悪口を言うというのは、言われると同じくらい脳に反応が現れる。侮辱の言葉、ネガティブな言葉を発すること自体、脳には害だ。他人の悪口を言っているつもりが、自分が悪口を言われているのと同じ悪影響を自身に受けている。
樺沢紫苑氏は感謝の効果を十分に出すには「悪口」1回に対して、「ありがとう」を5回程言う必要があるという。悪口・誹謗中傷、あるいは「自分はダメ、無理、出来ない」といったネガティブな言葉は極力意識して言うべきではないし、自分自身にも周りの人たちにも影響は大きい。つい言いたくなる言葉を一呼吸置いて、悪口屋にならないよう自制が必要だ。言葉は言霊。良いも悪いも言葉の影響は大きい。
『 皇統 VOL251』 3月のコラム上へ
2020年3月。国連の女性差別撤廃委員会から日本政府に送られてきた質問状の中に「皇室典範について、皇位継承から女性を除外するという決まりがあるが、女性の皇位継承が可能になることを想定した措置について詳細を説明せよ」という文言があった。つまり国連は、皇位継承が男系男子に限られているのは女性差別であるという。日本の歴代天皇は、現在の今上(きんじょう)陛下にいたる126代すべて、父親を辿れば初代神武天皇に繋がる血統、即ち男系で受け継がれてきた。長い歴史の中で、皇統断絶の危機は幾度もあった。その度に知恵を絞り、一時は女性天皇を擁して懸命に皇統を守り抜いてきた。女性天皇を擁しても女系天皇にはしなかった。
「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の欠けたることも 無しと思へば」と詠んだ藤原道長や織田信長そして豊臣秀吉も徳川家康も天皇の地位を奪い、その地位に就こうとはしなかった。天皇はそれほど畏怖すべき存在ということだ。これまで一般女性が結婚を通じて皇族になったケースは多くあるが、一般男子が皇族になることは許されておらず、男系男子による皇位継承は女性差別とは別のものである。そもそも2685年(AD2025+BC660)の長きにわたり守り抜かれてきた我国の根幹を外からの干渉により変えてよいものなのか。神武天皇以来連綿と受け継がれてきた万世一系の歴史が万一途絶えてしまえば、日本の中心が失われてしまいかねない。
2024年10月29日、国連の女性差別撤廃委員会は最終見解で、皇位を男系男子に限る皇室典範は女子差別撤廃と相容れないとして、改正を勧告してきた。勧告というと強大な権威から命令されたという印象を抱くが、お勧めするという程度の意味合いで強制力はなく、どう受け止めるか当事国が決めるということのようだ。もうひとつ、何故国連がこの問題を取り上げたのか。女系天皇を容認したい邦人が平素から熱心にロビー活動を行い、国連のテーブルに乗せた。つまり日本人自身がこの問題を招いたということだ。
天皇のことをほとんど取り上げない戦後教育の中で育った多くが、皇室は税金で贅沢な暮らしをしている。天皇は不要だとの声も聞かれる。天皇は国の平和と国民の安寧を祈る人。年間を通じて膨大な公務を全うし、祭主として重責を一身に担っている。皇室の126代、2685年に及ぶ歴史は世界でも群を抜いて、各国の羨望の的となっている。断絶が一度もなく、万世一系で受け継がれてきた日本の皇室はまさに奇跡といえる。決して途絶えさせてはならない。
『 承認欲求 VOL250』 2月のコラム上へ
情報発信がSNS中心になったと言っても過言ではない昨今。他人から一目置かれたい、自分を認めて欲しい、という欲求を満たそうと、SNSを駆使し、閲覧者からのリアクションに期待する今時の風習。他人の評価が気になって仕事や普段の生活に支障をきたすまでにエスカレートしてしまうことも。こうなると発信する方もリアクションを返信する方も歯止めが効かなくなり、自分自身を見失う危険性を孕んでいる。人の気を引いて、チヤホヤされていたい。他人から賞賛されたい、他の人が仲良くしているのを見ると嫉妬心が湧く。本能のひとつともいえるのだが、コントロールしないと誰も相手にしてくれなくなる。
幼少時は我儘も容認されるが、長じるに従い、分別ができるようになり、我慢することも、相手を思いやることもできるようになる。ところが中には抑制が効かないまま大人になる人がいる。自分の思い通りにいかないと、暴力的になる人、殻に閉じ籠ってしまう人等。そういう人は素直に自分を受け入れることができず、自分の価値を認めることができず、自分の短所やコンプレックスを気にかけ、挙句に自己嫌悪になる。その穴埋めに自分はここに存在していると認めてもらいたいという欲求を満たすための手段としてSNSで発信する。対人関係を苦手としているので、見えない相手を対象として。
この承認欲求に男女の差があるという。個人差があり一概に言えないが、他人に認められたい、評価されたい、という欲求は男性が強く、嫌われたくない、変な人と思われたくない、という欲求は女性が高い。どちらかというと男性は女性よりも地位や名誉に固執傾向が強く、争い事に発展することもしばしばだが、女性は、まあまあ、この辺でいいでしょう的な中和を求める。それで世の中が成り立っているとも言える。
承認欲求が強い人ほどSNSを頻繫に利用し、スマホ依存に陥りやすくなるという。老若男女誰でも、いくつになっても、誰かに繋がっていたいし、認めて欲しいという思いは多かれ少なかれある。認めて欲しいなら、自分も相手を認めればいい。互いに承認し合えば意見の食い違いを擦り合わせできる。自分の感情も相手の感情も尊重できれば、ストレスも少なくなるのに、一筋縄ではいかないのがこの世か。歳を重ねると物欲は少なくなるが、自分の存在を認めて欲しいと欲求は、いくつになってもなくなることはない。誰かに支えられて、今ここに存在していることを忘れてはならない。
『 ポップコーン脳 VOL249』 1月のコラム上へ
2025年が明けた。令和も7年目になった。年賀状じまいが定着し、お正月の風物詩が少しずつ少なくなり、初売りも高揚感がイマイチ。娯楽やニュ-ス等の情報源はスマホでほぼ足りるから、テレビ離れに拍車がかかっている。況や新聞や本も。
ポップコーン脳:思考が次から次へと飛び移ってひとつのことに集中できない状態。多動性と新たな刺激を渇望する状態。注意力が散漫な状態を指す俗語。ポップコーンの粒が不規則に弾けるように、頭の中であれもこれもと考えや課題が次から次へと飛びかう現象。情報過多により、まとまりがつかず、どれも半端で終わってしまう。オンラインで入手できる膨大な量は、認知能力を圧倒し、情報の処理と保持に課題をもたらす。ペースの速いライフスタイルが、職業的、社会的プレッシャーとなって、複数の課題を同時に処理しなければならない現代。皮肉なことにこれが注意力の散漫の一因となっている。ポップコーン脳が個人と社会に及ぼす影響として、生産性の低下、不安やストレス等の精神衛生のリスク増加、学業成績の不振等が上げられる。絶え間ない心の飛び移りにより、生身の人間と繋がることができなくなると、社会的孤立、共感する力が低下する。
では、どうするか。心のメンテ、気持ちのリフレッシュ、精神の安定の時間をつくることだ。外からの騒音を遮断するデジタルデトックスやマインドフルネスといった瞑想の実践、集中力を高め、コントロールできる時間を意識してつくる。お薦めは睡眠の前。横になって眠りにつく前にはスマホ等は見ないで、目を閉じて今日一日の振り返り、今ここに集中する。この時に額の中央部、眉間(みけん)所謂第三の目に気持ちを集中させる。深呼吸して、集中して、気持ちを落ち着かせ、振り返り、なりたい自分をイメージする。そうすると眠りにも自然と入ることができる。気持ちをリフレッシュして、一日のいいことも嫌なこともリセットして、なりたい自分のイメージをする。強くイメージすれば夢は正夢になる。
毎年区切りの1月1日に今年の抱負を心に誓うものだが、負を抱く覚悟があれば叶うし、なければ叶わない。リスクを負わなければリターンは得られない。情報を得たとしてもそれを処理する能力がなければ通り過ぎる。自分にとって有効な情報かどうか判断して拾うか捨てるか。新年早々、情報過多で頭がパンクしないよう、頭デッカチにならないよう、ひとつひとつできるところから着実に確実に堅実に。